国立病院機構 長崎医療センター 江﨑 宏典 院長

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対応を知り、シミュレーションを繰り返す複数の災害を見た院長が語る備え

【えざき・ひろのり】 長崎県立長崎東高校卒業 1981長崎大学医学部卒業 同部附属病院第三内科研修医1983 長崎大学医学部附属病院第三内科医員 1984東京都老人医療センター内科 1987 宇佐高田医師会病院内科部長 1989 国立長崎中央病院(現:長崎医療センター)内科医師 1994 トロント大学医学部家庭地域医学科留学(Academic Fellow) 1997 国立長崎中央病院内科医長 2004 川崎医科大学総合臨床医学講座教授 同大附属病院総合診療部長 2007長崎医療センター統括診療部長 2012 同院長

 長崎県の基幹災害拠点病院の一つ、国立病院機構長崎医療センター。1991年の雲仙普賢岳噴火災害、翌年の島原鉄道列車事故といった県内での事故・災害だけでなく、県外で発生した阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震にも医療者を派遣してきた。江﨑宏典院長も、数々の場面に立ち会ってきた一人だ。

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―東日本大震災の際、東北に入られたそうですね。

 国立病院機構の医療班として、救命救急センター医長の中道親昭医師や看護師、ロジスティックとしての事務官でチームを作って宮城県に向かいました。震災から10日ほど経ったころでしたね。

 朝、長崎空港を出発して、大阪国際空港(伊丹空港)で乗り継いで新潟空港へ。そこからは、レンタルしたワゴン車で陸路を走り、宮城県に着いたのは夜。雪が降っていましたね。長崎から持っていった医薬品だけでなく、使い捨てカイロがものすごく有り難がられたのを覚えています。

 私たちは、宮城県亘理郡山元町にある国立病院機構宮城病院周辺へ、医療支援に入りました。山元町は死者637人、家屋全壊2217棟(うち流出1013棟)。高台の宮城病院自体に津波被害はなかったものの、眼下の住宅は津波によって流されていました。

 主な仕事は救護所の設置と運営。避難していた方から、「毎日飲んでいた血圧の薬がない」「糖尿病の薬が流された」などの相談が多かったこと、医療機関からも薬がなくなる一方、われわれの基地となっていた仙台医療センターには全国から医薬品が続々と届いていたことから、薬の調達・調整の仕事にも力を入れました。

 避難所は寒く、インフルエンザなどの感染症が流行する恐れがあったことから感染症予防対策もしましたね。中道君が本当によくやってくれていました。

―災害現場は、それが初めてだったのでしょうか。

 医療班として活動した数が多いわけではありませんが、振り返ってみると、さまざまな災害に遭遇してきました。

 長崎大学で研修医をしていた1982年には、長崎大水害(昭和57年7月豪雨)が発生。河川が氾濫(らん)し、土砂崩落が相次いで、大学病院でも入院患者さんの給食に影響が出たのを覚えています。

 1991年6月の雲仙普賢岳噴火による大規模火砕流発生の時には、当センターで循環器内科医をしていて、気道熱傷の患者さんがここに搬送されてきたのを目にしています。

 1986年、伊豆大島の三原山噴火の際にお年寄りを受け入れた東京都老人医療センター(東村山市)にも、その時期に勤務していました。いずれも、同じ場所にいたというだけで、何かできたわけではありませんが、危機感を持つという姿勢には、つながっているかもしれませんね。

―昨年の熊本地震の際は。

 当院のDMAT隊第1陣を前震直後、熊本へ送り出しました。一方、こちらでは患者さんの受け入れ準備を整え、看護師やレジデントが待機していました。結局、熊本から大勢の患者さんが運ばれてくることはありませんでした。当院での受け入れは2人。県内と近県の病院で対応できたのは、よかったと思います。

 その後、長崎県からの依頼に応えて医療班も派遣。東日本大震災の時の私自身の経験からチームに薬剤師を組み入れました。ところが、熊本地震では火事が起きたわけでも、津波があったわけでもない。いったん避難しても、薬を取りに自宅に戻ることが可能で、想定ほど必要性は高くなかったようです。

 「必要ない」ということではありません。でも、同じ「地震」という災害でも、状況によってニーズが異なることを実感しました。

―数々の災害を経て、今後に生かすべきことは何だと考えますか。

 命令系統ですね。医療支援に入る人は、それぞれ思いがあって、現地に入ります。それは崇高なことだけれど、思いだけではバラバラな活動になってしまう。誰かが統率する必要があると思います。

 では、誰が担うのか。東日本大震災時のわれわれのように遠隔地から入った人間にできることではありません。現地のことを熟知している人がふさわしいでしょう。

 でも、実際は現地の人はものすごく大変ですし、疲弊もしています。事実、東日本大震災時の宮城病院の院長先生も、院長室にずっと寝泊まりし、風呂にも入れない状態が続いていました。課題は多いですね。

 長崎県の場合は、旗ふり役は県で危機管理課、個々の病院は指示を受ける形になるのだと思います。

―県内で一番想定している災害は。

 水害です。長崎大水害では市内だけでも300人近い人が亡くなりました。

 それより25年前の1957年7月には諫早大水害があり、ここ大村市もかなり浸水しています。

 ですから、この地区で起きるとすれば、30年〜40年に1度の大水害でしょうね。それから長崎空港や、高速道路の長崎自動車道が近くにありますので、事故という人災が心配です。

―医療者がまず、すべき備えは。

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 今は、医療機関ごとにアクションカードなどの災害時の対応シートが用意されていると思います。まずは、その存在と、それに従えばいいということを知ること。さらにはシミュレーションを繰り返しておくことが大事でしょうね。

 何か起きた時に、一から考えて行動するというのは不可能です。非常時に医療機関がきちんと活動できるかは、医師、看護師、薬剤師、事務職、あらゆる職種の人が、事前に練られた方法通りスムーズに対応できるかどうかに、かかっているのです。

独立行政法人 国立病院機構 長崎医療センター
長崎県大村市久原2-1001-1
TEL:0957-52-3121
http://www.nagasaki-mc.jp

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