「悪は悪か」
ご存じ「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と江戸幕府における老中田沼意次と松平定信の治世を比較した落首は、「世の中、清濁併せ飲んでこそ住みよい」といっている。つまり、「必要悪」を許容し得る社会ということであろう。
かつて、倫理、倫理と倫理風が吹いた時があり、ある筋では、製薬メーカーのカレンダーをもらってはいけない、ボールペン1本罷(まか)りならぬとのお達しが出たと聞く。今思えば笑い話であろうが、人間の思考はこの繰り返しである。
また、官官接待が問題となり、料亭の看板が下り、ネオンの明かりが減っていったのは記憶に新しいところであるが、税金の無駄使いや便宜供与は肯定し得ないものの、接待が絶対だめかとなると疑問符が付くのが必要悪というものか。
話は変わるが、暮れのテレビ番組で鬼平犯科帳THE FINAL前編・後編を観た。ご存じのように池波正太郎原作の時代劇で、歌舞伎俳優中村吉衛門のはまり役となった火付盗賊改方長官長谷川平蔵シリーズであるが、惜しむらくは、28年の歴史に幕を下ろしたのである。
2夜にわたって視聴したが、あらすじは置くとして、平蔵裁きは、前編では、自分のこの手で首を絞めたと自白する旅籠のおかみに、「夢だったんだよ」と、やさしく諭し、おかみの所業を無かったこととしており、後編では、押し入ろうとした大店の蔵の合鍵をこしらえた老人を、なぜ、見逃したのかと上司に問われ、「弁別の分かち難きは見て見ぬ振りをするべきか」と答えている。
そこに流れているのは人情であり、善か悪か二者択一を求める世の不条理に、「何が善で何が悪か」を問い、見て見ぬ振りで「罪と罰」を問い、人が人を裁くことの意味を考えさせてくれていると感じたのである。