医師のなかには、特定の分野で専門家以上の才能を発揮し、極めた方がけっこういらっしゃる。
熊本大学大学院生命科学研究部神経内科学分野教授である安東由喜雄氏も、そういった異能の人のおひとりなのだろう。凡才の身からはうらやましい限りの文才が詰まった一冊だ。
映画好きと称する方は多いが、ヘビーな映画マニアであっても、いざ「映画を語る」となると、好きだからこその思いが先走ってたちまちその映画の本質を伝えることが難しくなる。
いわば映画評論とは極めて客観的な行為であり、知識、教養など豊富なバックグラウンドこそが評論を一流ならしめるかどうかの分水嶺となる。研究活動と類似する知的活動であるのか。そう思わせるほど、筆の進みはなめらかだ。
映画とそれに関連する疾患を取り上げ、巧みに医学知識と物語の間を行きつ戻りつする本書は、月刊誌「メディカルクオール」の連載をまとめたもの。10年にわたって連載し、「映画にみる遺伝子と疾患」シリーズとして本書はなんと4冊目にあたる。
映画「象の背中」は2007年に製作された日本映画だ。アイドルのプロデュースなどで知られる秋元康氏の原作を映画化した。その映画を、安東教授は肺がん促進遺伝子をキーワードに論じている。
役所広司演じる48歳の藤山幸弘は、突然肺がんを宣告される。救いを求めて優しい妻(今井美樹)と愛人(井川遥)の間をさまよう主人公。安東教授は「背中の激痛は脊髄への転移だろう」と診断しつつ、人間は象のように孤独には死ねない、と波が打ち寄せる海辺のホスピスのシーンへ読者を誘導する。
すると、安東教授は突然タバコとがんとの因果関係についての講義を始めるのだ。肺細胞内の遺伝子の突然変異を研究することで、安心して喫煙できる集団が生まれるのではないか―安東教授の科学的な分析をよそに、今井美樹は「生まれ変わってもプロポーズしてくれるか」と問いかける。すると、安東教授は、何をしでかしても帰る港がある男は幸せだ、と結論づけるのだ。
こんな映画論が40本も続く本書。安東教授は優れたユーモアのセンスもお持ちだと思うが、どうだろうか。
(大山=本紙副編集長)