【10月1日に病院を新築移転】がんの集学的治療が可能に
◆沖縄県で初めての社会医療法人
医療法人として1982(昭和57)年に100床で設立。当初は慢性期を中心に診ていましたが、地域の医療ニーズに応え、急性期へとシフトしました。
2001年に特定医療法人化、2009年には沖縄県で初めて社会医療法人化しました。現在の病床数は336、職員数は1000人を超えています。
◆後方病院との連携
沖縄県中部医療圏の人口は48万人、圏内には県立中部病院、中部徳洲会病院、ハートライフ病院、そして当院という四つの救急病院があります。当院では年間約6000台の救急車を受け入れています。
いわゆる「たらい回し」が少ないのがこの地域の特徴で、ほぼすべての症例を最初の病院で受け入れています。
当院の平均在院日数は10日、ベッド利用率は100%です。急性期病院が病床の回転率を上げるためには後方病院との連携が必要不可欠です。お互いが「Win-Win」な関係が築けるかどうかが今後の課題ですね。
先日、済生会熊本病院の副島秀久院長に来ていただき、地域連携のあり方についての考えをお聞きしました。
私たちが進むべき方向性は間違っていなかったと確信しました。
◆放射線治療が可能に
10月1日に現在の病院から900m離れた場所に病院を新築移転します。新病院のコンセプトは「高度急性期医療の提供」「集学的がん治療の構築」「救急医療の充実」です。
当院でがんと診断された患者さんの内、96%の方の治療を当院でしています。ただ、これまでは放射線治療ができませんでした。新病院にはリニアックを導入したので、放射線治療が可能になります。
がん治療には外科治療、化学療法、放射線治療などを組み合わせた集学的治療が必要です。しかし、当院では、その内の一つが欠けていました。放射線治療を他の病院にお願いしていた状況で、患者さんに負担をかけていましたが新病院では、それが解消できます。
免震構造を備えた建物になるので災害医療やドクターヘリの受け入れも積極的にやりたいと考え、ヘリポートも設置しました。
◆ドクターカーの導入
名護市にある北部地区医師会病院と当院の間に金武という地域があります。金武から当院まで救急車で20分、金武から北部医師会病院も同様に20分かかります。
心筋梗塞や脳梗塞の治療は一刻を争います。数分の遅れが致命的なんです。そこで今年の4月からドクターカーを導入しました。迅速な治療が可能となったことで一人でも多くの人を救えるようにしたいですね。
◆父は現役最後の医介輔
父の宮里善昌は、沖縄にしかいなかった医介輔(いかいほ)でした。私が生まれた翌年に医介輔試験に合格、与勝半島の診療所や出身地でもある平敷屋村で診療所を開き、2008年まで現役最後の医介輔として頑張っていました。
その後ろ姿を見ていたからでしょうか。「医者になれ」とは一度も言われたことはありませんでしたが、気が付けば医療の道に進んでいました。
父は2010年に日本テレビで放送されたドラマ「ニセ医者と呼ばれて〜沖縄・最後の医介輔〜」のモデルとなり、私も医療監修として制作に携わりました。
主演の堺雅人さんからは「芝居ではない、医師としてのリアルな動きを表現したい」と要望されました。お産の時の手の動きなどの細かい指示を出させていただいたことを覚えています。
◆事務職の協力が重要
円滑な病院運営を可能にするためには優秀な事務職が必要です。いくら優秀な医師、メディカルスタッフがいても事務の協力がなければ経営は成り立たないのです。
幸い当院は泉谷好信事務部長をはじめ、多くの優秀な事務職員に恵まれています。
◆文学賞を受賞
私の専門は小児科です。45歳の時に医療以外の分野で子どもに関わることをしたいと思いました。そこで児童文学を書き 「シャモ―戦うにわとり」という作品で「第2回盲導犬サーブ記念文学賞」の大賞を受賞することができました。
今はアコースティックギターの弾き語りをしながら酒を飲むのが楽しいですね。これまで自分ではフォークソングを歌っているつもりだったのですが、娘からは「お父さん、なんで演歌ばかり歌っているの」と言われてしまいました(笑)。
- 【医介輔とは】
- 戦後、アメリカ占領下の沖縄(同奄美を含む)に設けられてた医療職のひとつ。正式名称は介輔。医介輔は医師不足を補うための「代用医師」として、医師助手や衛生兵経験者らを対象に付与された。制度が作られた1951(昭和26)年に126人が認定された。