隔離の歴史を共生の未来へ 将来構想検討委員会による基本方針の具体化
2001年、らい予防法違憲国家賠償訴訟の原告側(ハンセン病元患者)全面勝訴は、元患者らが長年取り組んできた権利回復運動の大きな成果だった。しかし、国賠訴訟後もハンセン病元患者への偏見や差別は根強く残り、「らい予防法」廃止(1996年)後に国立ハンセン病療養所を退所して社会復帰した者は96年当時の入所者の1割未満にとどまる。
厚労省によると、現在、国立ハンセン病療養所は全国に13園あり、2016年5月時点で入所者総数は1567人。入所者の平均年齢は84・5歳と超高齢化が進んでいる。東海北陸地区唯一の国立ハンセン病療養所で、昨年開所70周年を迎えた駿河療養所の福島一雄所長に、療養所の現状と将来構想について話を聞いた。
設立の経緯
国立駿河療養所は、第2次世界大戦の戦線が拡大するなか、南方戦線でハンセン病にり患して内地送還される傷痍軍人を収容する目的で当時の軍事保護院が設立した「ハンセン病傷痍軍人療養所」(1 9 4 5 年開所)が起源となります。開所から70周年を迎えましたが、国立療養所としては最も新しい施設です。
実際、1944年のインパール作戦(インドにおける旧日本軍の歴史的大敗)に出征された元軍人の方が、車イスではありますがいまでもお元気で生活されています。
入所者数は開所以来、のべ1000人を超えています。多いときには400人以上いた入所者も減り続け、2016年6月現在で62人の元患者の方が入所しており、入所者の平均年齢は約83歳になりました。療養所内は超高齢社会です。
断絶の世界に生きて
上写真=療養所敷地内にある葬儀場。複数の宗教による葬儀が可能 下写真=駿河納骨堂。1950 年から1963 年までに人工中絶された、胎児の標本10体が所内に放置されていた。現在は納骨され、富士山が見える高台で眠る
かつては、療養所を出て名前や出自を隠しながら外の社会で生きた方がいましたが、多くの方は若いころに入所させられて学校にも行けなかったので、いったん入所した者が外の社会で生きるということは非常に難しかったでしょう。
高齢になった現在では療養所の中で生活するしかないのですが、中で生活する難しさもあります。まず、入所者には身寄りがありません。夫婦でも子どもを作ることを止められていましたし、隔離されていたので家族や社会とのつながりが完全に絶たれています。
療養所の外の社会においても高齢者は一般的に寂しいものです。なぜなら友だちや知人がどんどんいなくなるからで、まして親きょうだい、子どもがいないとなれば当然寂しさは深いものになるでしょう。
さらに、たとえば入所者が病気で亡くなりそうになってご家族に連絡を入れると、連絡したこと自体が迷惑だと言われます。過酷な偏見と差別のなかで生きてきた、非常に孤独な方たちの終末期にわれわれは寄り添わなければならないのです。
入所者の減少と高齢化が進む現状では、生活習慣病などの合併症以外に筋力低下や四肢の障害、半数の入所者に視力障害があるため、そういったケアが職員の重要な役割になっています。
したがって、ハンセン病療養所としてハンセン病そのものの治療やハンセン病に起因する2次的障害、合併症の診療などを行うことはもちろんですが、高齢重複障害者医療施設として生活介護の重要性が増しているというのが当施設の現在の実態だと思います。
療養所の将来像
2010年に、入所者自治会や社会福祉協議会、御殿場市医師会などが中心になって、国立駿河療養所将来構想検討委員会を立ち上げました。
検討委員会では、「入所者の意向を尊重し、負担をかけないこと」や「医療、介護福祉など一定レベルを維持、保障すること」と並んで、療養所の地域への開放、共生を図ることを基本方針としました。
要するに、70年間培ってきた医療やケアを療養所の「財産」と捉えなおし、地域の医療機関と連携して存続しようということなのです。
計画を具体化するために、昨年10月から、病棟と外来(内科、整形外科)にハンセン病ではない一般の患者さんを受け入れる体制をとっています。まだほとんど利用者がいませんが、あきらめずに粘り強く共生の道を探っていきたいと思います。
国立駿河療養所
静岡県御殿場市神山1915 番
☎0550・87・1711(代表)
http://www.nhds.go.jp/~suruga2/