平和と医療、人権を沖縄から発信 | 琉球大学医学部附属病院―2024 年、米軍宿舎跡地に移転
米国統治の遺産―アメリカ医学の影響
琉球大学に来て11年になりますが、私が思うに沖縄が他の都道府県に比べて特殊なのは、アメリカ医学の影響を強く受けていることだと思います。日本医学は、歴史的に帝大を中心としたドイツ医学にルーツを持ちますが、アメリカ医学は非常にプラクティカルな部分が多い。救急医療が特徴的です。
このことは当然、歴史と無関係ではなく、沖縄は第2次世界大戦において日本における唯一の地上戦を経験し、その後27年にわたるアメリカ統治時代を経ています。
統治が始まった時にアメリカがまず考えたのは、感染症対策と救急医療の充実で、アメリカ型医療を、まず県立中部病院に導入しました。同時期に米海軍病院も建てられていますが、両病院の設計図がまったく同じなのが象徴的ですね。
アメリカ医学が根付いた沖縄において、最後の国立大学医学部として1981年に開校した琉球大学の役割は、プラクティス(実践)とサイエンス(研究)を有機的に結び付けることにあるといえるかもしれません。
さらに、新興の大学であることも関係していますが、大きな強味として特徴的なのは、学閥がないということです。私は岡山大学の出身ですが岡山大学出身者が、たとえば九州大学や京都大学で教授になれるかというと、かなり難しい現実があります。しかし、琉球大学には岡山大学出身者が2人しかいないにもかかわらず、附属病院の院長になることができる。ちなみに、香川大学出身者が1人だけいるのですが、彼は学部長になっています。
ひいていえば、沖縄県中の病院に学閥がないということでもあり、どんな病院であってもスムーズに患者さんの情報の受け渡しができるのです。
県医療の特性
現在の基幹病院の院長は、県立中部病院や他の県立病院出身の方がほとんどですので、県の実情をしっかり把握しています。したがって、プラクティカルな救急医療をしっかりやろうという意識は徹底しています。
この点に関連して言うと、ご存じのとおり、沖縄県は離島を数多く抱えていますので、大学の役割でもある医師の派遣機能については、他の都道府県よりも強化を図る必要があると考えています。幸い、私が教授を務める第一内科は医局員が多いこともあって、毎年10人程度を宮古・八重山と県北部に派遣しています。11年続けていますが、これによって得られた地域からの信頼感は計り知れません。
国際医療拠点構想(※)で描く未来
西普天間の米軍宿舎跡地に琉球大学医学部を移転させる計画を進めています。8年後の2024年に移転予定ですが、私自身は、この移転計画はすばらしいチャンスだと思っています。
移転予定場所は普天間飛行場に隣接し、近くには海軍病院もある。アメリカにリンクすると同時に、東南アジアからの旅客機や船が頻繁に行き来する那覇空港、那覇港にも近い。台湾へは1時間かからずに行けますし、福岡と上海はほぼ同じ距離です。
今後、アジアのハブ(hub /集積地)として機能することが期待されている沖縄において、重粒子線治療施設や先端医学研究センターとともに医療拠点を築くことは、実践、研究の両面において強みとなるでしょう。
また、米軍施設の跡地というのはいわば平和の象徴であり、そういった場所に病院が移転することには感慨深いものがあります。アメリカ統治もそうですが、1879(明治12)年の明治政府による琉球処分など、琉球は幾度かの侵略と支配を経験しています。だからこそ、侵略された土地から平和を発信することによって強いメッセージ性も付加できると思うのです。
国籍、人種、民族など、属性に関係なく病気で困っている人を助けるのが医療の原点です。今回の移転はそういった意味では医療と平和の普遍性を訴えるものになるのではないでしょうか。
現在の附属病院は、「現代の首里城」を模して設計されましたが、私たちは「未来の首里城を作ろう」をキャッチフレーズにして、移転計画を進めています。
また、病院移転は、まちづくりの側面もあります。移転によって5千人ほどのコミュニティーが生まれますし、病院を中心として25キロ円を描くと中部病院と豊見城中央病院が入りますので、その圏内を医療コンプレックスとして描けば、附属病院を核としてメイヨークリニックのようなまちづくりができると期待しています。
私の使命は舵取りを間違えないこと。西普天間に未来の首里城を建て、世界平和を医療の力で発信していくことが天命だと肝に銘じています。
※ことば=国際医療拠点構想沖縄県が、昨年3月に返還された米軍キャンプ瑞慶覧・西普天間住宅地区(51 ㌶)の跡地を利用して進めている医療拠点構想。琉球大学医学部移転のほか、重粒子線治療施設の建設も予定されている。