筑紫野地区の基幹病院として開院から50 周年を迎えて
医療法人小西第一病院は2013年に開院50周年を迎え、新たな第一歩を踏み出したところである。筑紫野地区の医療機関として大きな役割を担ってきた同院の小西正洋理事長に、歴史や今後の取り組みなどを話してもらった。
―理事長就任から5年が経過し、2015年は節目の年となりますね。
当院の歴史は、私の父、哲郎とその兄で私の伯父の芳雄が九州大学医学部を卒業後、同大第二外科に入局したことに始まります。芳雄は医局長も務め、国費で当時の西ドイツに全身麻酔の技術を修得するために留学し、帰国後は先進的な技術を駆使した数少ない麻酔医として活躍しました。
筑紫野地区の人口増に伴ってこの地区に病院が必要という機運が高まり、筑紫医師会立の病院として1963年に筑紫第一病院として開院。4年後には小西第一病院と改称し、その後周辺に大学病院などもでき、超急性期の後方病院としての役割を果たして参りました。
―慶應義塾大学出身と聞いて、福岡ソフトバンクホークスの王貞治元監督を執刀された北島政樹医師が思い浮かびました。
私は、土屋雅春・石井裕正両教授の門下生として、基礎研究を中心に学び、当時まだ誰も手掛けていない手技なども行っていました。北島先生にもご指導を仰ぎましたが、先生は大胆なようで細やか、という方で、貴重な体験をさせていただきました。また、医学部の方針が研究だけではなく、臨床も大事にするという考えでしたので、臨床経験や救急の現場での経験も積みました。
ある教授は指導の中で「循環器内科だから心臓だけ取り出して診るのですね」といった言い方をされていました。人の身体はいろんな臓器が合理的につながって出来ていますので、医師もさまざまな知識がないと、薄い診療になったり、間違った見立てをしてしまったりすることを、そのような言い回しで伝えたのだと思います。今も心に留めている言葉です。
―2010年に理事長に就任して力を入れたのは。
大学病院は1千床という大きな規模ですし、大学病院としての役割もありますから、細かい部分では「こういう仕組みがあればいいのに」、「なぜできないのか」と感じた課題もあり、その点を実践したいと思いました。特に患者さんや家族の立場に立って退院後の身体、心のケアは重視しました。このため、当院は、病床数の規模にはめずらしくソーシャルワーカーが常に3人おり、さらに専任の看護師もいて、すべての患者さんに担当を付けて退院後まで関わります。
また、「病院があるから来い」ではなく、まず病院に来ていただくための情報発信に取り組みました。高齢者施設など多職種の方向けに、定期的に勉強会や交流会をこれまで数十回開催し、その結果、当院を含む地域医療のネットワークが出来上がってきています。また、自治体の教育講演会などにも積極的に協力してきました。最近リニューアルしたホームページも若い方や女性の目線を大事にして作っています。
―今後の取り組みの重点は。
国の病院から在宅へという方針がありますので、患者さんが当院を退院し、次の行き先を考える上で、入院時から調整をしなければならないと思います。
また、当院での療養環境も工夫の余地はあると思っています。職員には、自分たちがそこで快適に過ごせる病室なのか、ベッド周りはどうか、プライバシーはどうかなど、患者さんを自分に置き換えて、入院したくなる療養環境かどうかを考えてほしいと伝えています。
―多くの方が「家で死にたい」と言い、そうではない人は家族や家庭に問題があるようにもいわれます。
世の中も変わり、今では「最期は自宅で」という方は少なくなっていると思います。当院では外泊許可を出して家に戻っていただくようにしています。そうすると、以前は居場所があったのに、帰ってみたらそうではなくなっていたと感じることもあるようです。
昔と違い、地域に戻っても、社会が変化していますので、近所の目が行き届かない場合もあります。すると本人にとってハッピーではない環境で亡くなることもあります。これからの時代、病院であってもある程度、人の手があって安心できるところであれば、必ずしも家で死にたいということではないと思います。
今後、地域包括ケアシステムのなかで、そのような思いもくみながら国や政治が仕組みを考えていただけたらと思います。