失敗を防ぐことは必須、失敗から学ぶことはもっと重要
◆焼け野原からの再スタート
岡南病院の前身は1902年、岡山市内に創設された産婦人科「熊谷病院」です。1945年の空襲で全焼。先代院長であった父は、終戦直後の焼け跡へ戻り熊谷病院を再建、1953年、同院を母体として財団法人浅羽医学研究所を設立しました。
父は、東京慈恵会医科大学の学生時代から、森田正馬教授に師事していたこともあり、精神科医療に興味をもっていました。そこで、1963年、玉野市内に単科の精神科病院である岡南病院を100床で開設、翌1964年のライシャワー事件を機に、病床数を208床まで増床しました。全国的にも精神科病床が増え、当院は玉野市内唯一の精神科指定病院となりました。このころ、米国では精神科病床数がすでに減少し始めていました。
当院も、患者の社会参加・社会復帰、生活の質の向上を目指し、積極的に自立・退院支援を行い、病床数は現在の155床へと削減しました。
父は、1967〜1983年まで毎年スウェーデンを訪れ、そのころ同地に住んでいた私の家に滞在し、高齢者施設の見学や西欧州の国際学会に私の同伴者として出席していました。
スウェーデンと西欧州の高齢者施設を父と見学し、確立された社会主義社会で送る終末と家族や隣人に支えられ自宅で迎える死の是非を、父としばしば議論しました。父に「仕事をやめてスウェーデンへ引っ越してきたら」と持ちかけたら「わしは自分の所がえー」との即答がありました。スウェーデンにも、borta bra men hemma baest(他所は良いが、やっぱり我が家が一番)という諺(ことわざ)があります。
私は、海外にいながらも、浅羽医学研究所の非常勤理事として研究活動に参加し、帰国してからは、母校の後輩の研究を手伝い、国内外の専門雑誌に投稿してきました。最近は、当院の看護部門や薬局からの論文も増えてきています。浅羽医学研究所の論文・学会合評目録は当院のホームページに掲載しています。
◆豊富な海外経験
父は東京慈恵会医科大学の学生だった1927年、シベリア鉄道経由で西欧を旅行。そこで西洋と日本の文明の違いを目の当たりにし、戦争をしても勝てないと戦争には反対でした。
母方の祖父は、米国のサンフランシスコで雑貨店を経営していましたが、1907年ごろ帰国し、貿易会社を神戸市内で経営していたので、神戸在住の外国人の友人・知人が大勢いて、母の実家には、常に西洋人の客が出入りしていました。
私自身は1958年に大阪医科大学卒業後、在日米国陸軍病院でインターンを終了し、医師国家試験に合格。米国オハイオ州の病院で、内科の卒後研修を開始しました。ECFMGにも合格、ニューヨークの病院へ転勤、医局長も勤め、内科専門医受験資格も獲得しました。
1964年、スウェーデンへ移住。雑役夫、看護助手として働きながら、夜学で現地の言葉を習得し、1967年、同国の医師免許を取得。続いて腎臓内科と内科の専門医の資格も取りました。スウェーデンでは米国での内科の専門医研修が認められ、腎臓内科専門医として、主に透析治療を担当。市民病院、県立病院、大学附属病院と、医療制度の改革に伴って私の所属も変わりました。
ストックホルム郊外に自宅を新築、スウェーデン国籍も取得し、1982年、カロリンスカ研究所で学位審査にも合格しました。
このころまでの私の生き甲斐は、自分の可能性の限界を極めることでした。帰国してからは、自分のできる範囲で、世のため、人のためになる仕事をしたいと思います。
残された私の仕事は、現場の医師として、当院と研究所の経営者として、適切な倫理観と技能をもつ人物たちを見つけ、育て、世代交代することだと考えます。
◆欧米の精神医療
欧米と日本を比較すると、特に慢性の精神疾患患者の対応に関しては、日本の医療の質が高いようです。日本では精神科医療と福祉の間に谷間がなく,繋がっているところが良いと思います。
スウェーデンにおける1967〜1983年の高齢者医療・福祉については、大阪医科大学精神科の医局員同伴で現地を訪れ、同地の現状を日本精神科病院協会雑誌に発表しました。(1990 vol.9No.9 P77 〜P82・1991v o l . 1 0 N o . 2 P 8 6 〜P 9 1 ・1 9 9 5 v o l . 1 4No.10 P78 〜P81)
米国の精神科医療に関しては、日本精神科病院協会の視察でサンフランシスコ市を訪れ、報告は日本精神科病院協会雑誌(1999 vol.18 No.9 P47〜P56)に掲載されています。
ドイツの現場は、公衆衛生の視点から 前日本社会事業大学助教授の野口尚先生がドイツを視察後「ドイツにおけるグループホームなど痴呆性高齢者対策の動向」(※)、スウェーデンについては「エーデル改革とその動向」(※)と題して論文を書かれています。
世界の精神医療については、こころの科学(2003.5 No.109 P51 〜P55)に発表しましたので参考下さい。
◆医療の質
質の高い医療の提供が私たちの使命です。しかし、今は「提供側が勧める質の高い医療を患者・家族が受け入れる」といった時代ではなくなりました。
提供する側が多職種でチームを組み、複数の治療について患者・家族が理解できるような言葉で説明し、インフォームドコンセントを得た上で、複数の選択肢から選んでもらう時代、自己決定権の時代到来です。治療するリスク、しないリスク、予期できる効果についても当然伝えるべきです。
医療の質に関しては、Crossing The QualityChasm(NATIONALACADEMY PRESS:ISBN0-309-07280-8)を参考ください。
◆世界に目を向けよう
「着眼大局 着手小局」「Think gl obaly ActLocaly」という表現があります。医師には医学以外の幅広い見識が求められます。失敗も必要です。私は失敗ばかりして、米国の上司に「君の失敗は、僕にも勉強になるので、今度やる時は僕も仲間に入れて」と褒められました。失敗を防ぐことは必須ですが、失敗から学ぶことはもっと重要で、To Err is H uman, ToForgive Devine という諺もあります。
今年の10月1日から、院内医療事故調査制度が施行されました。当院においても院内事故、紛争、院内感染症については、以前から多職種の職員が院内外の研修会に参加し、勉強してきました。その報告が「MRSA 検出状況と対応」(※)「精神科医療における医療紛争・医療過誤の防止と対策」(※)です。
私自身も、日本医療安全学会認定の「高度医療安全管理者」を目指し、勉強しています。
Oscar Wilde の言葉"Youshould traet trivial thingssereiously and seriousthings in life with asinciere a nd studiedtribiality." を危ない事件や人物に遭遇の際は思い出します。
◆常識的現実と無常識・非常識な現実の橋渡し
常識的現実の裏には無常識・非常識な現実が存在し、われわれの経験できない世界を、現実だと信じて生きている人たちもいることに、気づくことは大切です。
私たち医師の役目は、両者の橋渡しをすることです。この役を務めることで生存について学ぶことは多々あります。
◆当院の未来を意識して
次男の浅羽穣二は麻酔科専門医で、一般財団法人浅羽医学研究所の理事の一人です。
長男の浅羽エリックは、スウェーデンのカロリンスカ研究所で研究と大学院生の指導をしています。11月28日には、静岡県で開催される第19回作業科学セミナーに同研究所を代表して講師として招かれ、「移住、教育、就労を通しての考察」という演題で講演します。
浅羽医学研究所と岡南病院は、これからも社会に存在している問題を認識し、なるべく多くの解決方法を、なるべく多くの人たちと創造できるよう努力していきます。
雑多で過剰な情報により、社会が消化不良を起こした時代が過ぎると、国境、宗教、人種、性別、貧富の壁を超越して共有できるルール作りが始まると予測します。
このような国際的なルール作りに、次世代のリーダー達は、それぞれの分野で、日本の未来を意識しながら積極的に関与することを期待します。
※印の論文などは、浅羽医学研究所のホームページで閲覧可能です。