社会医療法人 石州会 六日市病院 谷浦博之 院長
―病院と消防署の間にヘリポートがありますね。
中国地方の各県が協定を結び、ドクターヘリが相互運用できるようになりました。広島からは十数分、山口からも来るという運用がされています。
まずは現場救急として医師と看護師が、急に容態の悪くなった患者さんのところに行けるわけです。そして現場である程度の処置をして、大学や医療センターなどの高次機能病院に運ぶ必要があるか、もしくは六日市病院でも処置できるかを判断することが1つ。そして当院で治療の難しい人をほかの施設に運ぶという2つの面があります。
この病院の敷地内にと考えていたのですが、予算の都合で吉賀町が昨年の5月、国の地域医療再生基金を使って病院の横に建造し、それを使用しています。
―病院の現状は。
開院は昭和56(1981)年で、私がここに来てやがて19年になります。来た時は外科医が私を含めて3人、内科医も8人いて、食道がんや肝臓の手術もやるなど、ある程度の病気はここで完結できる状況でした。しかし徐々に、症例数が減ってきたこともあるのかもしれませんが、大学からの派遣が減ってきました。そうなって何ができるかというと、高次機能病院への搬送なども取り入れて、この地域の患者さんに不自由がない状況をつくるしかありません。今は総合診療科的な立場の医師が8人、そこにヘリポートができた。そのような変遷を住民は全部見てきています。
総合医という名称がない時からそうせざるを得なくなり、私は外科医ですが、脳卒中も肺炎も心筋梗塞も診なければならない。小児科も整形外科もやるというふうに、それがこの地域の今のニーズなんです。昔は開業医の先生がやっていたんですけどね。
―医療圏の人口はどれくらいですか。
吉賀町の人口が7千人ほどですから、我々の診ている人はおそらく1万人。ただしここは県境ですから、症状によって、広島、山口、島根のいろんな施設が選べます。国や県の言う医療圏というものがないので、その点は楽です。
―過疎地の医療に思うことは。
私は愛媛県出身で、高校を卒業するまでの18年は愛媛におり、こちらに来て18年以上経ちました。
患者さんとのつきあいを考えてみるに、大学病院などの大きな施設で外科医をしていたら、病気を追究し、いい治療を提供して帰ってもらうことの繰り返しだけになっていたと思います。もちろんそれは大切なことですが、ここに長くいますと、ずっと前に胃の切除をした人が、今度は糖尿病の患者になって帰ってくる。そのような長いスパンで地域の人を診るようになるので、人生まで垣間見ることになります。相手の人生の中で、その一部をお手伝いしているわけです。だから、私の仕事がある間はここにいたいと思うようになりました。
―院内の掲示物で改善活動が盛んだとわかります。
病院機能評価を受ける過程で、かつて福岡県の飯塚病院(飯塚市)にいた時にTQM(総合的品質管理)に少し触れたことを思い出し、5年くらい前から当院にも導入し、それ以外にも改善活動をやっています。医療者の確保については、当院の関連団体は看護学校を有しています。
それも、准看護師を3年かけて正看護師にする学校ですから、全国から集まってきた正看の卵が当院で働きながら、我々から研修を受けています。
―医者になろうとしている若い人に助言があれば。
中学生の時に「青年の主張」というコンクールで発表させられ、幼少のころ病気がちだったこともあって、「僕は医者になる」と言ってしまい、それが県大会まで上がって、有線放送で町中に流れちゃったんですよ。
そして長く医者をやった今思うのは、どんな仕事にも向き不向きがあるということで、本当に医者になろうという強い意志と覚悟がなければ、本人も患者さんも不幸です。人間を診る仕事ですから、相手の目をちゃんと見て話すこと、間違いは誰にもあるので、自分をかばうことを優先しないこと。そして相手に対して、謙虚でまじめであること。これは、やさしさよりもずっと大切だと思います。