JCHO久留米総合病院が乳がん患者に選ばれる理由
乳がんの治療実績で、福岡、九州のトップを走る、地域医療機能推進機構(JCHO)久留米総合病院。数多くの病院がある中で、なぜ、この病院が選ばれているのだろうか。乳がん月間の10月を前に、長年同病院の乳腺外科を率いてきた田中眞紀院長を訪ね、その理由を聞いた。
乳がんのプロフェッショナル集団
患者さんの多くは口コミでいらっしゃいます。乳がんは予後がいいので、当院で治療した患者さんが「良かったよ」と薦めてくださるんですね。スタッフの良さで、選んでくださっているんじゃないかなと思っているんですけれど。
私も今は院長職をしていますが、それまでは35歳でこの病院に来てずっと、乳がん患者さんのためを思って仕事をしてきました。
最初に思ったのは医師だけが一生懸命仕事をしていても患者さんには伝わらないということ。それぞれの職種のスタッフが、各々一生懸命、プロ意識を持って患者さんに接することが必要なんですね。しかも同じ信念、治療方針を共有していけることが大切です。
私も若かったので「みんなでがんばろうね!」と。そんな中で超音波やマンモグラフィーの技師がレベルアップし、プロフェッショナルと言われる人が出てきました。看護師の中からは乳がん看護、がん化学療法看護、がん性疼痛緩和看護や緩和ケアの認定看護師になるための勉強をし、資格を取る人が出始めました。
さらにリハビリ部門の人はがんリハビリに燃え、薬剤師も化学療法をする時に自分たちが中心になり安全にやっていかなければと、がん専門薬剤師、がん指導薬剤師の資格を取るようになっていきました。
それぞれの部署が、それぞれプロとして患者さんに対応する土壌ができて、さらに、丁寧に患者さんに向き合うということを続けてきたこと。それが、患者さんが増えた一番の理由じゃないかと思っています。
また、患者さん対象の「おしゃれ教室」も開いています。お化粧の仕方、治療で脱毛した時のかつらの選び方、爪も傷んでくるのでネイルケア...。患者さんに健やかに生きていただくために何ができるか。それを考え実行していったわけです。
さらに、乳がんが進行し、治療が難しくなった患者さんも依頼があれば引き受けてきました。そういったことの積み重ねでしょうね。患者さんの数はどんどん右肩上がりで増え、今は年間350例を超えます。
今は乳がんなら乳がんの実績がいい病院に行こうと思われる方が多い、そういう時代かなと思います。一番思うのは、「あの病院に行かなきゃよかった」とだけは思われたくないということ。患者さんに後悔はさせたくないと思っています。
私自身も院長になって1年経ったころ、職場の検診で乳がんが見つかりました。
発見が難しい深い場所に腫瘍があったのですが、うちの病院の技師がきれいに撮影し、読影医が的確に拾い上げてくれました。その日のうちにマンモトーム生検をして「やっぱり乳がんだ」と。
乳がん」と言い続けていたんです。予後がいいですし。だから「誰でもなるんだな。やっぱりなるよね」ってショックもほとんどなかったですね。
分かってすぐに治療計画を組み、手術をして、2年経つ今も薬を飲んでいますし、副作用とも闘っています。
私も、私の後に乳がんが見つかったこの病院の職員も、ここで治療しました。患者さんももちろんですが、職員がこの病院を選んでくれると本当にうれしい。自分で打ち込んでいる仕事と一緒に働く仲間を信じて治療を受けたり、家族を連れてきてくれたりすることが自信になっています。
治療は病人をつくるものではありません。患者を救って社会に帰す、社会に役に立つ人間にするものだと私は思っています。だから、患者さんに言います。「社会復帰しましょう」「仕事を辞めてはだめ」「がんも普通の病気と一緒です」と。自分自身も乳がんをして、一層そう思うんです。うちの職員もちゃんと復帰して仕事をしていますし、私の仕事も増える一方です。
今は0期、Ⅰ期で乳がんが見つかる患者さんが多くなっていますし、7割ぐらいの方はその人の寿命をまっとうします。乳房再建が保険適用になり、一時期増えていた乳房温存よりも乳房切除が増えました。手術と一緒に再建のための拡張器を入れる件数も九州で一番多くなっています。
乳房予防的切除も、希望があれば倫理委員会にかけて実施できます。でも遺伝子検査が陽性だった時に、親きょうだいの誰に伝えるのか、その相手は知りたいのか、予防的切除はするのか、など事情は人によって違いますよね。一概には言えない難しい問題です。
日本はアメリカと違って遺伝相談員の数も少なく機は熟していないと思います。検診をこまめにし、がんが見つかったら早めに切除する方が現実的ではないでしょうか。
この病院に来て25年、乳がんのことをがむしゃらにやってきました。2002年に女性外来を開いた時を振り返っても、ものすごくエネルギッシュだったなと思います。
経営や収益をまったく考えず、どうしたら患者さんに喜ばれるかということに無我夢中で、ひたすら走っていた時代。そんな時期が、人生のうちには必要だと思います。
乳がんのことを一生懸命やったこと、女性外来をみんなでつくりあげたことは、私の財産になっています。仕事を任せてくださった先輩方、若い医者にかかってくださった患者さんたちには、信じて仕事をさせてくださって、また育てていただいて、「ありがとうございました」という気持ちですね。
管理者になって、年齢的な役割というのがあると感じています。30代は必死で走り、40代はその立場で花を開かせる。50代になると、それまでにやってきたことによってポジションが付き、その後は、若い時に年齢に合った仕事をしていればその財産で仕事をしていける。
私も病院をまとめる立場としてはまだまだ走らなければなりませんが、乳がんについては、後継者づくりが最後に努力すべきところだと思っています。この病院で私の次にくる人は40代。当時の私がそうしてもらったように、ある程度任せ、チャンスを与えたいと思っています。その人がエネルギーを乳がんに注いでくれ、さらに下の世代はその人がいたポジションでひたすらがんばる。今は、育ちつつあるというところですね。
院長職は苦しいこともあります。でもいつも思うんです。「ひとりじゃない」って。人生は一度きり。死ぬまで楽しいことをしていたい。仕事も、その楽しいことのひとつです。