独立行政法人国立病院機構 呉医療センター・中国がんセンター 谷山清己 院長(附属看護学校長)
■医学博士 日本病理学会学術評議員 日本臨床細胞学会評議員 アメリカ癌学会active member 病理専門医 病理研修指導医 細胞診指導医・専門医 臨床検査専門医。
■著書に「アトラス細胞診と病理診断」(医学書院 共著) 「乳がん患者の心を救う新たな医療ー病理外来とがん患者カウンセリング」(日本評論社 共著)などがある。
JR呉駅前から平日に約30往復、呉医療センターまで無料シャトルバスが出ている。「病院前の坂道はきついから、すごく助かります。土日と祝日も走ってくれたらいいのに」。10人の列の最後尾に並んだ初老の女性がそう言った。記者も同じバスに乗り、たしかにきつい坂だったなと思いながらバスを降りた。
シャトルバスは、2代前の佐治文隆院長の時に、病院でできる改善として、職員の発案で始まったものです。高台にあることや旧海軍病院時代の印象から「敷居が高い」「高い場所にあるので高齢になると行かれない」などと言われ、患者サービスを増す必要があるという意見がありました。でも病院はバスを運営することができず、紆余曲折の末に旅行業者が間に入って運用にこぎ着けました。評判がいいのでこれからも続けていきたいですね。
―広島における呉の印象は。
私が医学生であったころの感覚からすれば、積極的に訪れる理由のない古い町の印象でしたね。最近は、大和ミュージアムなどの新しい施設も有名になっていますが。
ただ、こうして呉で働いていますと、呉という町は市民にとても愛され、その歴史が誇りになっていると思います。決して大きく語られる話ではありませんが、戦艦大和を造った呉であるということが誇りの中心です。
戦前は軍港で、呉市自体も海軍のためにつくられた町ですし、そして戦後は海軍が海上自衛隊となり、そのOBの多くが呉市に残っているんですね。これは呉の海上自衛隊の特徴の一つだそうです。さらに海軍病院だったこの病院の存在も大きいようです。それらが、特に旧市内の方には強い印象としてあるようで、「最後は呉の国立で」という言葉を聞いたことがあります。
―院長になって約1年。そのおもしろさは。
国立病院の時は誰が院長をやっても同じという印象がありましたが、今はトップの方針や個性が、病院に色濃く出るのを肌で感じます。醍醐味(だいごみ)といえるものは影響力の大きさでしょう。それをひしひしと感じますね。院長がしょんぼりしていたら、それだけでみんなの士気が下がります。一度だけ私的な会合で冗談交じりに「大変なんですよ」と言ったら、みんなが心配して集まってきました。その反応に私自身が驚きました。
―病理外来を提唱・実践し、全国に広がっています。
病理外来を始めて約10年になります。病理外来では、ほとんどの患者さんは目の前で泣かれるか感謝されます。重篤な診断の告知なので笑顔にはなりませんが、納得して、ほっとしたような表情に変わります。それは、目の前で患者さんが笑うのと同じだと思っていて、それが病理外来を続けるモチベーションになっています。
研修医だった若いころ、まだ何もできないので患者さんのそばに行って話を聞いてあげることくらいしかできませんでした。
あるとき女性の患者さんが、よく話を聞いてくれる先生でありがたいと言われて手を合わされました。笑顔とは違いますが、感謝です。ほかにも、数カ月だけの担当だったにもかかわらず、20年間以上暑中見舞いと年賀はがきを送ってくれる女性もいて、最後に来た手紙は息子さんからで、「昨年母が亡くなりました。先生には感謝しています」と書いてありました。
取るに足りないようなことしかできなかったのに、医者の仕事のありがたさというか、患者さんに与える影響がいかに大きいかがわかりました。それが私のモチベーションにもなり、患者さんにとっていいことをしなければと思います。
これも若いころに聞いた、「柳の下にどじょうが2匹いて、3匹目が出たら論文にしろ。それはキミのところに集まっているのだ」です。なるほどと思って論文を書くことにし、それを院長になる前に業績集としてまとめました。