独立行政法人 地域医療機能推進機構 湯布院病院 根橋 良雄 院長
1962年(昭和37年)、厚生年金湯布院病院として落成。その後、湯布院厚生年金病院と名称変更し、先進的なリハビリテーションを柱に据えた病院として大分県内外に知られてきた。2014年(平成26年)、 独立行政法人地域医療機能推進機構に移行し、湯布院病院に改称、今年5月1日から緩和ケア病棟をスタートさせた。就任して1か月半という根橋良雄院長に状況を聞いた。
―こちらに来られる前は。
東京にいました。九州の勤務は初めてです。所用で九州を訪れたことは何度かあり、湯布院にも来ましたから、土地勘がまったくないわけでもない。でも何が名物かまではまだわかりません。
―今なぜ緩和ケア病棟を。
外部環境として社会の流れがあります。中でもがんは、30〜40年前なら1人で3つもかかれば症例報告の対象になるくらいでした。でも今は複数あるのがそんなにめずらしくなくなりました。それは、治療法の進歩などによって長生きされていること、そして治ったり落ちついたりしていることです。
ということになれば次のがんが出てくることは確率的にも考えられます。がんの方は一定の割合でおられるし、治療法が進歩したといってもすべての方が治るわけではないので、がんを治すだけではなくて、ご本人の人生の最後の局面に病院がどう貢献できるか、ということになります。一昔前だったら治せるか治せないか、ということだったんですが、今は、治せない場合でもどう生活していくかについて本人や家族を尊重しながら関わっていくことが、今まで以上に必要になってきているし、いろんなことができるようになってきている。それが全国的なバックグラウンドとしてあります。
では湯布院を含めたこの周辺を見てみますと、この病院が先進的なリハビリを中心にかなり広範囲の圏域、県を超え来ていただいた歴史と、リハビリの蓄積は今でも非常にありますけれども、回復リハビリなどはほかのいろんな医療機関が努力されてきています。ならば次は、日本中できびしいと言われている老老介護などの問題に、この病院がどう貢献できるかという時に、がんの緩和ケアをやるという方向性が必要だろうし、また適しているわけです。
―人生の最後における関わりはとても大切になります。
メンタルやスピリットの面をケアする前提として、まずは肉体的な苦しみをできる限り取り除かなければほかのサポートができません。それでご本人が精神的にも安定してきて、一週間、あるいは一か月の有余かもしれないけれども、家に帰りたいと言われたら、そうしていただくのは当然です。ゴールを病院の中で完結させてあげるんだというのではなく、ゴールに向かって、「本人の望むことで、私たちにできること」をしてさしあげる。そうなると、地域でできるだけのことをしてあげましょうということになり、家の近くに病院があるのが望ましい。
あるいは家から遠くても受け入れやすいところ、たとえば私はここに来て一か月ちょっとですが、湯布院なんかはその候補地の一つかもしれません。盆地の中に田んぼがあって、あまりごちゃごちゃしていなくて、いつも由布岳を見ていると、こんな光景をいやだなと思う人はあまりいないんじゃないでしょうか。
我々医療者が地域に貢献するのはもちろんです。それに加えて、湯布院という地で培ってきた病院の財産もあるし、景観も含めた地域の財産もあります。それらすべてを患者さんのために生かせたらと思います。
―なぜ医者に。
将来後悔することのない職業だろうなと高校生の時に思ったんです。患者さんを診て助ける仕事なら、途中で迷うことも少ないはずだと。そして実際に医者になってみて、やはり少しも後悔はしていません。だけどほかの人に、ことさら医者がいいと勧めるつもりもないです。医者にはなりたい人がなるもので、どんな仕事も価値があり、大切なものですからね。
―若い人に助言があれば。
医学の道に進みたければ、自分のやるべきことを徹底的にやってほしい。受験生ならしっかり勉強し、医学部に入っても勉強をおろそかにせず、研修医になれば大所高所に立ったようなことを考える前に、目の前の患者さんを診ることに集中したほうがいいと思います。私は今年で60歳になりましたが、まだまだ未熟ですし、さらに成長を続けていきたいと考えています。
若い時の行ないは後々響いてきます。仕事に就いて最初の数年は、方向の見えてくる重要な時期です。だからこそ集中して仕事をしてほしいと思います。
そして一つでも、ほかの人に伝えるものを見つけてほしい。私はいろんな方からそれをもらいました。相手は覚えていなくても、私の心にずっと残っている大切な言葉がいくつもあります。そういうものが私の財産です。