北九州市小倉北区 新栄会病院 藤井 一朗 病院長
―なぜ医師になろうと。
小学3年の夏に急性腎炎になったんですよ。1年間運動を禁止されて、わんぱく盛りでしたからとても悔しくて。
両親は教師でしたが、従兄弟に当時のインターンがいて、1日か2日、私が危ない時があったらしくて、つきっきりで診てくれて、それがずいぶんありがたかった記憶があります。それが契機になったと思います。
昭和49年(1974)に鹿児島大学を卒業し、九州厚生年金病院(現在のJCHO九州病院)で2年間研修して、そのあと九州大学第二内科に入るなどしましたが、いろんな人との出会いがあって、その都度成長させてもらった気がします。
九州厚生年金病院で最初にお世話になった内科部長の縄田義夫先生(故人)は、とてもおだやかで学識がありましたし、九大第二内科の尾前照雄先生も、平成7年まで国立循環器病センターの総長に就任されていて、こちらに帰ってからも活躍されていますが、私のまわりはそうそうたる人たちが大勢いて、若かった私の目標になりました。
―医療を通じて思うことは。
人の身体と精神は、限りなく深いものだと思います。それに向かい合う仕事として選んでよかったと思います。
お年寄りの中には、もう何もすることがないとか楽しみがないとか言われる方がおられますが、興味を向ける対象があるのは幸運なことです。
―新栄会病院をどう運営してきましたか。
私がここに来たのが平成5年で、22年経ったわけですが、当時は急性期が中心の古い病院で、むろん手術もやっていました。そして平成9年の末に今のように建て替えたのですが、見渡せばこの周辺に大規模総合病院がたくさんあります。同じことをやっていたのでは生き残れないし、地域住民のためにもならないと思い、平成10年の10月から療養型の後方病院にすると決めました。
当時は療養型について知らない人ばかりで、内部で大きな抵抗がありましたが、医療者が療養型を恥と思っていたら何もできません。組織が生き残るためには発想の転換が必要な時が必ず来るんです。
結果的に赤字が黒字に転換し、急性期の後方病院として運営が軌道に乗り、特別養護老人ホームの建設や保育園の開設につながりました。
さらに平成15年に日本医療機能評価を受け、そのことによって職員が1つにまとまることができました。コンサルタントを入れることも予備審査を受けることもなしに1回で通ったんです。
月の初めに行なう朝礼では世界と日本のトピックス、そして病院の現状を10分程度話します。この朝礼は250回を越えました。
―地域の評判はどうですか。
最初のころに比べたらずいぶん信頼されているように思いますが、まだ不満足です。我々が想定しているよりも範囲をもう少し広げたほうがいいかもしれません。ニーズがまだありそうです。そこらの把握が必要でしょうね。
―医療者を目指す若い人にアドバイスがあるとすれば。
最初に言いましたように生涯のテーマが見つかるよと、強く言いたいです。いずれ私も定年退職しますが、そのあとも人間を相手にして暮らしたい。知りたいことはまだ山ほどありますからね。
【小倉新栄会の誕生】
旧陸軍造兵廠内に、従業員とその家族に対する生活用品の供給等の福利厚生に関する組織が「財団法人共栄会」としてつくられ、小倉造兵廠内にもその小倉支部がおかれていた。終戦によって軍に関わるすべてが解体されることになり、共栄会小倉支部も事業閉鎖となった。昭和21 年4 月に新しい「財団法人新栄会」が東京に本部を置き認可されたのに伴い、小倉もその支部「財団法人新栄会小倉支部」として発足した。
現在は社会福祉法人小倉新栄会として、新栄会病院のほか、デイサービス、居宅介護支援事業所、ケアハウス、保育園、不動産賃貸業など9事業を行なっている。本部事務所は北九州市小倉北区にあり、職員数271 人。代表者は上田一雄理事長。