徳島大学 大学院ヘルスバイオサイエンス研究部長 / 医学部長・医科学教育部長 / 産婦人科学分野教 苛原 稔
阿波国は藍染めが全国的に有名で、かつては藍商の多い土地だった。そのため徳島県は商人的な気質が強く、必要性を感じないなら投資をしない堅実な人が多い県民性だという。しかし徳島県出身の苛原医学部長は副院長時代、大学病院内に喫茶店やコンビニが並ぶアメニティロードを作るなど、思い切った改革を進めた。今でこそ多くの大学病院で見られるが、当時は珍しく、病院を明るい印象に変えた。
教員や学生たちは私の仕事を知らないでしょうが、現代の医学部長は名誉職ではありません。その分、学部長によって学部のカラーは変わると思います。
例えば、私は入学試験のあり方や方法を工夫して、できるだけやる気のある人を入学させるという方針を強くしました。もちろん基礎的な学力が低いのは問題です。コミュニケーション能力の高い人や、チームワークをとれる人であることを現場は求めていますし、医師に向いた性格かどうかというのも、慎重に判断すべきだと思います。徳島に残ってくれる人を採用したい気持ちはありますが、国立大学ですからそれを選考では考慮しません。教育や学生生活を通して、徳島大学医学部や徳島県の魅力に気付いてもらうべきでしょう。
医学部が魅力的であるためには、研究を充実させることが特に重要だと考えています。私は医学部臨床系教員の仕事を、診療、教育、研究の順で重要視していますが、最後に位置付けているからこそ、これが高い成果であれば、診療と教育がより高い水準になると考えています。また、徳島大学自体が研究に強いことを目指していますので、医学部はその先頭をきるべきという思いもあります。蔵本地区(徳島大学医学部・歯学部・薬学部の所在地)全体の研究を促進させることも私の任務です。
教授になってすぐ大学病院の副院長になり、以後病院経営に長く関わってきました。その仕事のひとつとして、私は診療設備投資やアメニティロードの整備を進めました。また、国立大学病院として全国で初めて指定を受けた総合周産期母子医療センターも、私が副院長時代に進めた仕事の一つです。
病院には1日2千人の外来患者があり、付き添いの人や、学生、職員、入院患者などを含めると、1日6千人くらいが蔵本地区には集まっています。徳島県内には、こんなに人が出入りする場所は多くありません。治療だけの場所ではないほうが、訪問者にとって良いことだと考えました。喫茶店やコンビニの誘致は、必ずしも大学病院に必要なことではありませんが、今改めて考えてもそれは成功だったと思います。
病棟や外来棟の設計に関しては、病院長時代の私のアイデアとコンセプトをもとに、設計士が図面を引きました。入札までは私が担当して、現病院長(安井夏生院長)に引き継いでいます。病院長・副病院長として経営に携わったことは、今も私の考え方に活きていると思います。
偶然ですが、教授に就任して14年間ずっと、建物の改築や改修に関わってきました。私の3代前の曽根三郎医学部長の時代から、私が改修担当教授として、老朽化した教育・研究環境などを整備しました。医学部長室を作り直したのも私ですが、当時は自分が使うことになるとは思いませんでした。
医学部に割り当てられる予算を分配するのも大きな仕事ですが、ほとんどはすでに行き先の決まった費用で、私の裁量で動かせるのはあまりありません。病院長の時の方が裁量範囲は広かったですね。
医学部長は併任ですから、産婦人科教授職も私にとっては大事な仕事です。特に産婦人科は全国的に入局者が減っていますので、医学生へのアピールや、関連病院への派遣の問題など、教育や研究以外にも心掛けるべきことは少なくありません。
徳島大学産婦人科は徳島県立徳島医学専門学校時代の昭和18年に開講しました。最初の3人の教授は、戦中戦後の混乱期で、大変なご苦労があったと推測します。昭和24年に大学令が出て国立大学となり、第4代の飯田無二教授が就任。7代目が私の前任で、後に徳島大学学長になられた青野敏博教授です。
長い歴史があるので関連病院は多く、四国4県のほか、和歌山県や関西地方、北海道にも医師を派遣しています。教授としては医師の派遣の問題を含めた、病院の人事問題が最も大きな仕事であり、1番気を使うところです。青野先生はお辞めになる時、「僕までは良い時代だったけど、これからは大変な時代だね」と言われましたが、本当に14年間悩まされています。
2001年の4月に助教授になり、その年の7月に教授になりました。前任の青野教授がお辞めになった時私は筆頭講師で、助教授が2人いらっしゃいました。お2人は「お前がなれ」と、教授選には関わられませんでした。私が教授に就任したときは、一番年上の私が46歳、次が43の助教授ですから、医局の平均年齢は一気に下がりました。
当時、私を可愛がってくれていた日本産婦人科医会の坂元正一前会長がとても喜んでくれて、「日本で一番若い産婦人科教授が誕生した」と広めてくれたのを思い出します。また私は長く日本産婦人科学会で幹事をしていたのですが、就任して1年ほどしてばったりあった理事の先生に「立場が人を作るのかねえ」と言われました。当時は若輩そのものでしたので、貫禄が出てきたという評価だと解釈して、嬉しかったですね。
医学部長として、大学が変わらずに隆盛を持続させていくためには、常に内部改革で変わっていくことが必要だと考えています。そういう意味では、個人的に良い経験でしたが、臨床系の教授になるのは、その責務の多様性を考えると50歳を過ぎた人のほうが良いのかなと考えています。
不妊治療などの生殖医療が専門で、日本生殖医学会の理事長や日本産婦人科学会の倫理委員長をしています。全国レベルを常に意識しながら仕事ができています。
徳島県には、体外受精や顕微授精をされる方への助成する事業があります。若いカップルが多額の出費をするのは大変ですから、ありがたいことです。徳島県はほかにも、妊婦健診などにも補助金を出してくれています。産婦人科の領域への補助には積極的で、助かっているというのが正直な気持ちです。
また婦人科内分泌学も専門で、疾病予防などを中心に女性医学にも力を入れています。産婦人科医療でもあまり知られていない分野ですが、乳がん検診もやっています。田舎の大学なので一つに特化させず、産婦人科領域の全方位を一定の水準以上に保つことが大事だと考えています。生殖、周産期、腫瘍、女性医学の4つの分野すべてで、高い水準の診療ができるというのが、教室の特徴です。