国民健康保険久万高原町立病院 院長 金岡 光雄
―愛媛県へき地医療支援計画策定等会議委員をつとめ、また平成15年度へき地医療貢献者表彰を受けていますね。
当院は松山市内から車で45分ほどの距離ですが、久万高原町は四国で最も面積の広い自治体で、医療分野における「へき地」に定義されており、当院は国から不採算地区病院特別交付金を貰っています。広い理由は10年前に久万町、面河村、美川村、柳谷村の1町3村が合併して誕生したためで、院名もその時久万町立病院から改めています。
高知県との県境にある旧柳谷村からここまでは1時間ほどの距離で、当院が無ければ高知市の病院に行く方が近い。緊急を要する場合は、町内全域当院が無ければ困ることは多いと思います。私が赴任して1年ほど経ったころ、救急指定病院になりました。当時の院長の英断だったと思います。
以前は上浮穴郡医師会の副会長をしていました。小さな医師会ですので、皆さん顔見知りで関係は良好です。代替わりがあって、新しい先生も増えてはいますが、少しずつ会員は減り始めている、という現状があります。
私は他院に勤めたことはなく、長く勤めています。しかし歯科の兵頭先生と薬局の渡辺先生の2人は、私より1年早く着任されています。32年勤めても先輩がいるということが、この町の医療者不足と居心地の良さを端的に表していると思いますね。
旧久万町は林業と農業の町で、当院の内装には地元の木材が使用されています。私が赴任する以前は、林業で栄えていたそうです。
現在は人口9000人ほどの町で、毎年300人減っています。役場では町を発展させて人口を増やそうと計画していますから、今は少し多い77床を今後も守ろうと考えています。
―愛媛大学地域医療学講座とは。
2009年から始まった愛媛県による寄附講座で、5年生は全員受講します。当院は、地域医療に興味を持ってもらうための研修施設の1つで、学生たちが医療の現場を見学します。ほかには西予市立野村病院が研修施設で、そこの川本龍一副院長が担当教授です。学生はどちらかで外来を見たり、訪問診療について行ったりしています。若い後輩がたくさん来ることを私は喜んでいるのですよ。その中からへき地で働きたいという人が出てきたら嬉しいですね。
松山市には近いですから、地域医療を学ぶには良い場所だと思います。
―愛媛大学の一期生と聞きました。
愛媛大学の一期生は時期外れの秋に入学して、5年半で卒業しました。1つでも単位を落とすと留年という厳しいカリキュラムでしたね。6年でも大変ですから、半年短いことの苦労が分かると思います。春の入学ではありませんから、西日本の浪人生が集まった学年でもあります。私は高知市出身ですので、松山市に近いほうだったようです。
卒業後愛媛大学の第3内科に入局し、大学院の修了後、すぐ当院に赴任しました。大学院生の頃、土日祝の当直のアルバイトに来ていた病院の1つで、良く知っていたのです。また父が亡くなり、母の様子を見るために実家に帰りたかったので、都合が良い場所でした。
当院の目の前の道は、大学時代に両親が私に会うために使っていた道路で、思い入れもあるのです。この町の風景は、死んだ父が私に会うために見ていたものですからね。
―病院と愛媛大学の関係は。
1981年に第3内科の向井先生が赴任され、良い関係を作られました。その翌年、玉井正健先生(現宇和島市立津島病院院長)が赴任され、私が続き、以後愛媛大学第3内科との関係を強くしていき、今では関連病院です。それまでは長崎大学の関連病院で、歴代の久万町長は医師の確保に苦労されたそうです。
先代の矢野侃夫院長は宮崎県出身の長崎大学卒業で、当院に34年勤務され、今は鹿児島県に住んでいらっしゃいます。
―病院の周りは町の施設が集中しています。
病院からは役場が近いため、相談がしやすく、助かっています。
現在の髙野宗城町長は町における病院の重要性を理解して下さっていますし、非常に協力的で、応援していただいています。永井修一副町長は、私が院長になった当時、病院の事務局長だった人で、内情も分かっているしやっぱり話がしやすいです。
もっともこれは現状で、町長が変わってもやりやすいかどうかはまた別の話でしょうね。
―紙面を通じて伝えたいことを。
私はガイドラインを参照する今の医療には否定の立場です。とらわれ過ぎると、患者さん一人一人に適した医療が提供できない場合があると思うからです。
ガイドラインは欧米的な考え方で、もっと日本的な医療が求められる場合は多いのではないかと思います。少なくとも医師は従ったとしても、それが本当に最良な医療なのか、常に自分で考えるべきだと思います。