にのさかクリニック・バイオエシックス研究会 米沢慧「いのちを考える」セミナーより
=岡村昭彦が遺した「医療ボランテイア」の試み= 「鐘ヶ江 寿美子」
にのさかクリニック・バイオエシックス研修会の第20回セミナーで、国際ジャーナリスト岡村昭彦氏の「医療ボランテイア活動」が紹介された。高齢社会となり、多死時代を迎えつつある今、私たちは「ホスピス社会」、すなわち「いのち」を受けとめる町づくりを意識せざるを得ない。そんな中、医療ボランテイア活動が注目されている。岡村氏の「いのち」のとらえ方、医療ボランティアの考え方には学ぶべきことが多い。
岡村昭彦のこと
ロバート・キャパを継ぐ男と呼ばれた岡村は時代を伝えた思想家といわれている。
彼は1972〜1973年のベトナム戦争最終ステージを、南北双方の視点で取材し、アメリカ敗戦をスクープするなど、戦争ジャーナリストとして活躍した。晩年は医療ジャーナリストとして、バイオエシックスからホスピスに関する取材と自主ゼミを精力的に行なった。著書「ホスピスへの遠い道」ではホスピスの母マザー・エイケンヘッドに関する厖大な取材をしているが、これはベトナム戦争の取材中にケネディの出身地であるアイルランドに関する調査を発端とした。
岡村の写真は単なる戦場の悲惨さを紹介するものではなく、一兵士の人としての尊厳が感じられる。彼の数々の活動は、時代の中の「いのち」の受けとめが主題であった。
岡村の医療ボランティアの試みー諏訪赤十字病院の入院案内 (1986年)
病院の管理的な内容にとどまった「病院案内」や「入院心得」が主流であった当時、「患者と看護師、医師がともに人間として平等の立場にならない限り21世紀の看護をめざすことは不可能である」という看護師の想いとともに入院案内作成が始まった。これは岡村が主宰した諏訪赤十字病看護ゼミの卒業制作で、米沢氏がゼミや入院案内の編集を支援したという。
「ようこそ(Welcome)」、「あなたはひとりぼっちではありません」で始まる入院案内は、「入院患者を人として迎え、自宅に帰っていただくために、責任をもって、全てを受けとめます」という看護師の決意が表され、岡村ゼミの成果がうかがえる。岡村は「病院や医療者は、﹇健康﹈ではなく﹇病気﹈にしか興味をもたない」、「どんな重症患者でも健康な部分が残されていればこそ回復する希望が持てる」と訴えていた。入院案内制作のテキストとしてSt. Patrick Hospitalの入院案内が選ばれ、看護師はその翻訳作業を経て、「患者と看護師と医師が平等である」というSt. Patrick Hospital のケアの理念を知った。また「When May I go home?」というページが設けられ、入院しても患者は家族や地域と繋がっていることを大切にした。面会人にも「患者さんは、皆さんに勇気づけられます」、「面会にはおもいやりが大切です」と語りかけた。
岡村は「病院はもう一つのcommunity」=生活の場だという視点を重視した。これは、ホスピスや近代看護の母といわれるマザー・エイケンヘッド、ナイチンゲール、シシリー・ソンダースらのケアの哲学と一致している。諏訪赤十字病院の入院案内は、患者の権利をどう受け止めるかを記した冊子となった。
安曇病院神経科への医療ボランティア (1981〜1983年)
岡村と安曇病院精神科医栗本藤基氏は、患者個人の心が外に開かれ、新しい関係を構築し、再出発していく=医療の解放化をめざし、ボランティア活動を開始した。岡村ゼミ受講者を含むボランティア60人が6か月のプログラムを終了し、3か年計画に取り組み、のべ450人が参加した。
ここでも活動のプリンシプルは「人間の健康な部分に働きかけなければ患者は回復しない」ということであった。「人として」の関わり、「患者」であることからの解放を理念として、①コミュニケーションの活性化、②食事の改善、③選択の自由、④最高の生活環境、⑤生活の質の向上に留意した。この活動で病院は家庭的な雰囲気になり、生き返った。最大の成果は「患者が自信をもってきた」ことであった。
医療ボランテイアとは
米沢氏は医療ボランテイアを「暗いところにどう健康なものを取り入れるか、人間として生きていくために自分の大事な時間を他人のために使う」主体的活動であるとまとめた。ゼミに参加した二ノ坂医師や在宅ホスピスのボランテイアをされている女性も、医療ボランテイアを「患者さんや家族の健康な部分に働きかけて、生活を豊かにする」と定義した。
一方、最近のボランティア活動は主体性が低下し、専門家以外の人たちが排除されやすい問題についても米沢氏は指摘した。
ボランテイア活動は既成のものではなく、何の見返りも求めず、新しい発想で行ない、次世代へ継承することが重要であると締めくくった。