下関市立済生会豊浦病院 院長 上領頼啓
当院は昭和19年に広島陸軍第一病院小串転地結核療養所として設立され、終戦後は旧厚生省に移管し、名称も国立山口病院と変わり、爾来医療・福祉の拠点として地域と密接に存続して来ました。
平成8年に国立病院整備計画の一環として、国立下関病院との統合案が打ち出されました。当然地元は猛反発し、当院は旧豊浦町が引き受けその管理運営を山口県済生会が行なう公設民営となって、名称は山口県済生会豊浦町立病院と改称されました。
さらに豊浦町と下関市の合併に伴い、平成17年に「下関市立豊浦病院」と名称変更し現在に至っています。
当院は急性期病床と医療型療養病床があり、急性期病棟では急性疾患の回復に向け治療を行ない、医療型療養病棟では長期入院が必要な慢性疾患の治療あるいはリハビリを目的としています。急性期治療後直ぐに退院の判断が出来ない場合は、医療型療養病棟で引き続き観察していきます。
敷地内には介護保険を利用した老健施設「ひびき苑」を併設し、治療を終えた患者や病勢が安定している患者のリハビリを主とした医療・介護を提供し、家庭復帰と在宅支援を行なっています。
さらに隣接して山口県立豊浦総合支援学校があり、疾患のため普通学校就学が困難な生徒が小児病棟に入院し、治療を受けながら通学しています。
僻地あるいは過疎地に付き纏う深刻な医師不足、医療行政の向かい風に柔軟に対応しながら地元への貢献度を更に高めて行くためには当院を自主的に経営するべきとの強い思いから、今年4月23日に市に譲渡を申し入れ、下関市は6月11日の市議会文教厚生委員会で市立豊浦病院を済生会山口県支部に2016年4月に譲渡する決定をしました。譲渡案は6月の定例議会で報告され、8月20日下関市と済生会山口県支部との間で譲渡の調印が行なわれました。
この病院は新しい施設でも昭和56年、古い施設になると昭和39年建設で、激しい雨の日には雨漏りするほど悲惨な状況を呈し、また新建築基準法成立以前の建物であるため1床当たりのスペースも平均56㎡と狭く、病室での病床間隔も極めて窮屈であり、加えてかつての結核療養所をそのまま使用している関係上療養施設特有の病舎間が広くて動線が長いという構造は、現状の需要に照らし合わせると業務効率が悪く、また震災後の災害時における緊急の避難所として耐震構造であるべきだと思います。
5年毎に更新する現行の指定管理者制度では、市の予算や条例等の制約があり、また、病院施設自体も老朽化が進み、地域住民の健康を維持し、福祉に寄与すべき医療機関として技術やケアを十分発揮出来ません。
下関市の協定書案によると、建物と医療機器は指定管理協定の契約期間終了の2016年4月1日に無償譲渡、土地は10年間無償で貸与した後譲渡する方針で、済生会は譲渡前に建て替えの設計をして譲渡後に建築に着手することになっています。
譲渡の調印後に中尾友昭市長から「今後も豊浦・豊北地域の中核を担うに相応しい病院として整備し、これまで以上に地域住民に信愛されるよう頑張って下さい」と激励されました。これまで5年毎に協定書を交わしていたため、長期的視野に立った展望が見込めない不安定な立場でしたが、これでようやく自立出来ることになりました。しかしながら昨今の医療環境、経済情勢を鑑みるに新たなる荒浪への船出でもあり、気を引き締め努力したいと思います。
父親が大島郡で耳鼻咽喉科を開業していて、自然に医者になりました。高邁な精神でもって医療界に身を投じた故ではありませんが、医師を続ける中で患者さんとの信頼関係が最も大切であり、それを築くためのテクニック等はなく、天賦の資質に加えて品性を陶冶する不断の努力が大きいということが分かりました。これから医療者になる人は医学知識のみならず、卓越した見識、豊かな教養を身に付けることが必要だと思います。