豊かな医療資源を生かし切りたい

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一般社団法人 久留米医師会 会長 北里誠也

会長=北里誠也(北里医院)副会長=田中二三郎(天神田中内科医院) 参与=坂本照夫(久留米大学病院)理事=植田省吾(植田泌尿器科医院) 宮原研一(みやはら産婦人科医院) 宮川洋介(古賀病院21) 戸次史敏(戸次クリニック)野原正敏(野原内科循環器科医院) 俣野淳(俣野内科医院) 井上治(小児科 井上医院) 大治太郎(聖ルチア病院) 渡辺滋之(わたなべ耳鼻咽喉科医院)岩井一郎(いわい内科胃腸科医院) 小島浩樹(小島眼科医院) 浅倉敏明(浅倉整形外科医院) 三原典(皮膚科泌尿器科 三原医院) 監事=田中弘吉(田中内科クリニック) 槇清孝(槇眼科医院)

北里誠也:1973 久留米大学医学部卒業久留米大学医学部第一外科入局 1990 北里病院を継承 1994 久留米医師会理事 1997 福岡県医師会予備代議員 2000 北里医院へ施設変更 2012久留米医師会会長。現在に至る。公衆衛生事業功労者表彰。

 久留米医師会のホームページによれば、歴史は明治10年(1877)にまでさかのぼり、今の北里誠也会長で19代目となる。今年4月には一般社団法人となり、6月には新執行部が決まった。医師会長として、あるいは医師として、今をどう見ているかを率直に聞いた。

―北里会長から見た久留米という町は。

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 久留米市という小さな町に久留米大学があり、なかでも医学部は先輩後輩の絆が強く、1998年から久留米医師会の会長をしておられた田中幹夫先生(現久留米大学医学部同窓会顧問)は全国を走り回って、医学部同窓会の支部を作りました。それがきちんとまとまるくらいの結束力があります。

 久留米大学病院をメインとして、聖マリア病院、新古賀病院、あるいは久留米総合病院といった大きな病院がたくさんあり、その中心には久留米大学の出身者、あるいは医局に所属していた人が多くいます。大学自体も、理事長、学長、病院長、医学部長は全員久留米大学出身ですから、非常に気心が知れていると思います。患者さんの紹介率が高いのもそのためでしょうね。開業医の90%以上が久留米医師会の会員であることも特筆に値します。私自身も小中学校から大学までずっと久留米です。

―医療から見た久留米の特徴は。

 医療に恵まれた土地柄で、連携もうまくいっており、文字通り地域で完結していると言えます。

 しかしあまりに医療資源が多すぎ、それが当たり前になって安心している面があります。でも今はよくても、今後、医療と介護が別になった場合、医療を少し離れることで戸惑う方が多くなるのではないかと思います。

 介護保険を利用しますと、入院も入所も難しくなりますから、そうなると自宅でみとるようになります。そこで私どもは委員会を立ち上げ、校区ごとに1か所くらい、在宅医療と介護に関するセンターのような場所を行政と打ち合わせしながら作ろうとしているところです。

 久留米市は広域合併により、田主丸、北野、城島、そして三潴(みづま)が併合されましたため、1つの行政に4つの医師会があり、地域包括支援センターは全部で5か所です。これを増やして、全市的にうまく対応できるような体制をつくり上げていこうとしているところです。

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写真上=医師と歩こう県民健康ウォーク in くるめ、下は救急医療支援事業街頭キャンペーンでの北里会長

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 久留米には福岡県看護協会がつくった訪問看護ステーションをはじめとしていろんなステーションがあります。在宅の患者さんから24時間体制の訪問看護ステーションやかかりつけ医に連絡がいくようになっており、在宅医も増えています。

 課題があるとすれば、やはり女性医師への支援です。日本では2012年に医師数が30万人を超えました。医療機関に登録のある医師は男性23万2千人、女性5万7千人で、このほかに毎年卒業する学生は8千500人で3割以上が女性です。久留米医師会においても女性会員の数は増加しており、女性医師の支援はこれからの課題です。とくに女性医師の労働環境の整備、保育支援、雇用環境の支援を考えていきたいと思います。

―なぜ医者になろうと。

 父親が医者で、その影響で息子4人のうち上の3人が医学部に行きました。そして夏休みなどで帰ってくると、親父を囲んで飯を食べながら医学用語が飛び交うわけです。高校生の私はそれを見て会話に入りたくなったんです。

 父の時代は盆や暮れの時期、診療代がお米のこともありました。夜中の往診もけっこう日常茶飯事で、朝、目を覚ますと父が深夜に起きて仕事に出ていたこともありました。家族にはきびしかったですが、患者さんにはとてもやさしかったようです。

―医師を続けて得たものは。

 私が医者になって思うことは、やはり人とのつながりが大切だということです。いろんな人に助けられ、あるいは助けて、互いにそれを、わかってはいてもあまり言わず、簡単な挨拶の中に感謝を織り込むような付き合いが多いです。

 私は基本的に「人にやさしく、特に病める人には」をモットーにして相手の気持ちを考え、言葉を選んだりします。

―未来の医療者に伝えたいことがあれば。

 今は医療者と患者さんの信頼関係が強いとは言い難い時代かも知れません。それでも、父から教わった、「病を診ずに人を観なさい」という言葉は私に影響を与えています。町医者をやっていますと家庭環境までわかることがあります。そのような背景も知りながらの診療がいつの間にか身につきました。この人は神経質だからちゃんと説明しておけば早く良くなるとか、くよくよする人には声かけを工夫したら回復が早いとか、自分がこれだけ語りかけたら相手に伝わるんじゃないだろうかとか、そういうことも大切かもしれません。そうなるには医師になる勉強に加えて、小説をいっぱい読んで言葉づかいをたくさん学ぶとか、そういったベーシックなことが足りなければ間違うことも多いかもしれません。

《久留米医師会の歴史=ホームページより》
■明治10 年久留米町と近傍の大石、白山、梅満村の在住開業医により来目(くるめ)医学協会が作られた。■医師組合時代=明治16 年福岡県規則「開業医組合設置法」制定に準拠し、御井・櫛原・山本3郡医師組合設立。明治22 年久留米市制施行に伴い御井・櫛原・山本3郡医師組合を離れ久留米市医師組合を創立。後に久留米医会と改称。■省令医師会時代=医師法交付、福岡県令による医師会規則施行細則の制定により、明治40 年に久留米市医師会の設立が県知事名で認可された。■法定医師会時代=医師法の第3次改正に伴い、従来任意設立であった地方医師会が強制設立となり大正9 年に法定の久留米医師会が誕生した。■県医師会支部時代=太平洋戦争に突入し官製医師会と改組され、久留米医師会は昭和18 年福岡県医師会久留米支部となった。■社団法人時代=戦後官製医師会は解散し、昭和22 年、民法34 条により社団法人医師会が出現。その後GHQによる旧役員の追放騒ぎがあり、新生久留米医師会もいったん6月に成立し、12 月にこれを解散、役員を改選して新発足した。

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