JA広島厚生連 理事・JA尾道総合病院 病院長 弓削 孟文
広島大学を退職し、広島市役所で病院事業局長をしていました。今年広島市立の病院は独法化しましたが、その下準備をしていたのです。独法化してすぐは慣れないし大変でしょうが、しばらくすればアクティブに動けるので、是非やるべきだろうと考えました。市議会などを通す必要はなく、決定までの期間が短く済みます。広島市立の4病院は今後さらに発展するのではないかと思います。
それまでは医療関係者に囲まれて仕事をしてきましたが、市役所に医師は数名しかいませんでした。全然知らない人たちに囲まれて仕事を始めましたから、最初は大変でしたね。大学にずっといた私には、そういう環境は初めてのことだったのです。4年務めて、当院に来ました。
当院の総病床数は393床で、尾三二次医療圏(尾道市、三原市および世羅郡)では大きな部類の病院になると思います。医局長時代には教授の指示で、医師を派遣するかどうかを判断するため、見学に来たことがあります。その後、私の弟子が何人も派遣されており、私も手伝いに来ていました。医師はほとんどが広島大学の出身者で、知っている人が多い。関係作りを一からやらなくてよかった分、やりやすかったです。
頑張る人が多いし、職員の団結力も強い。良い環境に来たなという思いがあります。
ここは丘の上にあり、海がよく見えます。尾道では、海鮮丼が安いのに美味しくて驚きました。海の幸だけでなく、農産物もおいしい地域ですよ。農家の方が特別多いわけではないように感じていますが、たくさん来ていただいていると思います。当院は農協の運営ですが、組合員を優遇しているわけではないので、その割合は分かりません。
私が着任する以前から、NST(栄養サポートチーム)に力を入れています。これも、当初は農協の病院であるということが関係あったのかも知れません。JAと院名についており、農協のサポートを受けていますが、患者さんにとっては普通の病院と変わらないでしょうね。
病院の宿舎を借りて、ウイークデーは尾道住まいです。土日に用事がなければ、広島市内に帰っています。平日妻が遊びに来るので、退屈や不便は感じていません。休日は2人で広島市内から尾道に来て、寺社を回ったりして楽しんでいます。
通勤してみようと最初は挑戦してみましたが、ちょっとしんどかったですね。車でも、電車でもきついです。広島市から遠いとは言えませんが、近いともいえないのが尾道です。呉市も福山市も少し遠い。
しかしそれらの地域に行かないと、3次救急はできません。ここは空白地帯です。だから今、地域救命救急センターの申請を県に出しているところです。この地域にも必要だと思います。
麻酔科医として、救急医療にもずっと関わってきました。麻酔科医としてはまだ現役でやれると考えていますが、救急医療の発展はめざましく、今の私ではもうこちらは通用しないでしょう。救急医療には設備だけでなく、専門的な知識を持った医師が必要です。
当院には現在、救急センター、内視鏡センター、心臓血管センターの3つがあり、これを機能させることが地域に貢献することだと考えています。3つのセンターを発展させることを重点化していますが、救急以外の2つはかなり機能し始めてきました。ですから、今は救急センターの充実化が、私の一番の目標です。
当院の救急車の搬入口は、3台を同時に受け入れられる形になっており、うち2つはその場で手術ができるようになっています。そして優秀なスタッフが控えています。今はもっと万全の体制を作るために、人員を厚くしようと動いています。
今年、中国横断自動車道尾道松江線が全線開通します。山陽自動車に対し、西瀬戸自動車道と合わせて十文字を描き、今後尾道市の病院が受け持つべき救急のエリアは広がるでしょう。診療エリアが広がる分、市内の病院で協力して医療に取り組みたいですね。忙しくなるでしょうが、オール尾道で対応すれば大丈夫だと信じています。
3つのセンターは私が作ったものではありませんし、個人的には救急センターを早く充実させ、もう1つか2つくらいセンターを作りたいなと考えています。
当院は地域がん診療連携拠点病院で、総合的ながん治療を行なっています。近年がんに関する医療は多様化してきて、キュアを目指さない価値観も特殊ではなくなってきました。当院には緩和ケアチームがありますが、これも近いうちにセンター化するべきかと考えています。
院長の隣の川上多聞総務課長は、一昨年まで広島市に住んでおり、転勤で尾道に来た。2人は「病院移転の際は自衛隊に手伝ってもらったが、東北の震災直後で大変だった」という話を、当時からいる職員に聞いたそうだ。
実家は山県郡北広島町です。父が開業していた医院が休院のまま残っています。20年前から閉院しているようなもので、妻がよく掃除をしに行ってくれ、助かっています。父は耳鼻科が専門でしたが、医者の少ない地域でしたから何でも診ていたようです。私は麻酔の医者が開業するなんてことを考えませんでしたから、後を継ごうとは思いませんでした。
私は大学で教えている時、家を継がなければならないという学生をたくさん見ました。中には継ぎたくないという人もいました。私はその気がない子供に継がせるのは、良くないことだと考えています。しかし後継ぎがいなくて無医村が増えるという事態は良くありません。だから教育者として、過疎地における医療者の重要性を話しました。私自身は継ぎませんでしたが、父の背中を見て育ったことが、若い人に伝わったと考えています。