本日6月20日は新選組の副長土方歳三の誕生日らしい。新選組には、大政奉還後、医業に関わった人物がいる。
新選組二番組隊長の永倉新八も、明治を生きた人物だ。松前藩藩医の婿養子になり、杉村義衛と名乗ったらしい。家督を継いだが、医師にはならなかったようだ。妻と子は小樽市内で薬局を営んだと伝わる。本人は、北海道の樺戸集治監で看守に剣術を教えた。
集治監とは重刑者を収容する監獄で、凶悪な犯罪者も多く収容されており、良い剣術の指導者が必要だったのだろう。永倉は日清戦争の時志願したが、断られている。しかし明治政府も教育は重視し、永倉の助力を拒まなかった。
集治監は北海道のほか、東京、宮城、福岡に設けられた。福岡県大牟田市に設置された三池集治監の土地は、後に三井財閥が買い取り、私立工業高校になった。
戦後の財閥解体で高校は県に移管され、三池工業高校と名を変えた。今も集治監時代の高いレンガ塀が残っている。
この高校は1度だけ、全国に名を知られたことがある。昭和40年の夏に開催された、第47回全国高等学校野球選手権大会で、初出場初優勝したからだ。この時野球部を率いたのは、東洋高圧工業大牟田(現三井化学)を辞めた原貢氏だった。
阪神タイガースなどで活躍した真弓明信氏は、原氏と同じ社宅に住んでいたことがある。小学6年生の時、優勝パレードを間近に見たことが、野球選手を志すきっかけになったという。
しかし三池工業高校は、その後野球の名門校にはならなかった。優勝の翌年、原氏が東海大相模の監督になったからだ。以後春夏ともに、一度も甲子園に出場できていない。一方東海大相模は、誰もが知る強豪校になった。戦術眼も優れていたのだろうが、それでも若者に対する指導者の重要性を示す材料の一つと言えるだろう。
原氏は今年5月29日、神奈川県の病院で亡くなった。死因は心不全だと発表された。