医療法人社団おると会 理事長 浜脇 純一
日本整形外科学会整形外科専門医・スポーツ医・リウマチ医・脊椎脊髄病医 日本体育協会公認スポーツドクター 日本リウマチ財団リウマチ登録医 全日本病院協会常任理事 広島県病院協会常任理事 徳島大学医学部非常勤講師(臨床教授) 広島県体育協会副会長
―一代で作られた病院と聞きます。
昭和53年の1月に41床で浜脇整形外科病院を開設しました。
昭和49年からマツダ病院に勤めはじめましたが、オイルショック直後で、企業立病院は苦しい立場でした。マツダは経営再建のために住友銀行から役員を受け入れ、創業者の松田家が経営から離れる時期で、医療用の器具を買う予算が下りません。当時は広島大学から借りていましたが、よく何度も貸してくれたなと今では思います。
パワーが余っているのに患者さんが来ても思うように手術ができず、欲求不満がつのっていました。「自分の専門分野を、手術できる病院を」と開業したわけです。オイルショックがなければ、しばらくは勤務医だったでしょう。
個室の多い病院にしたい、という思いでしたが、当時の保健局の指導で、患者さん10人くらいが一緒に寝る大部屋を薦められました。当時は若かったから「元気な人だって知らない人と同じ部屋で寝るのには抵抗あるのに」とだいぶ抵抗してはみたんですけどね。
当時は医療をするのが精一杯で、事務的なことには手が回りませんでした。患者さんは増えるので、人を増やさなきゃいけないのですが、そういうノウハウは何にも持っていない状態での開業でした。まだ30代で、病院経営に携わったことは何もない状態です。打算もない、理想を追い求めただけの開業でした。
銀行で担当者に、担保はあるかと問われ「担保はこの腕です」と言ったことがあります。結局頭取が尽力してくれて、お金を借りることができました。恩人の一人です。
一生懸命にがんばっていると、困ったときには必ず助けてくれる人が現れました。銀行印も実印も、何もかもを事務員に預けていましたが、大事には至らず、とにかく人に恵まれました。そうして人に助けられながら、何とかやってきました。
後年、娘が東京から帰ってきて、経営をやってくれるようになったことも、本当に助かりました。帰ってきたばかりのころ、一目見ただけで書類のおかしな点に気付き「お父さんこんなザルみたいなことをして、よく赤字にならなかったね」と呆れ、「ザルの目を一つずつ埋めるのが面白い」と言ってくれました。
―救急を大事にされていますね。
私は地域医療の原点は救急だと考えています。
開院当時、整形外科疾患の救急は、多くの場合外科医の先生が診ている時代でした。しかし外科の先生の処置と、我々整形外科を専門に学んだ者の処置とでは、大きな差があるわけです。だから私は、整形外科疾患は整形外科医が診なければいけないと思いました。
そういう時代だったので、整形外科医の専門的な救急治療はすぐに評判になりました。「市内の整形外科的救急は、一手に引き受けてやる」という気概でした。どんぶり勘定の経営でも上手くいったのは、人の倍働いたからだと思っています。
救急をきちんとやっていたら、助けた患者さんが家族や知人を紹介してくれるようになり、患者さんが増えていきました。すぐにベッドも足りなくなり、昭和60年には84床、現在は160床にまで増床しています。
平成9年に外来と入院・救急の機能分化をしましたが、外来を担うクリニックがまた手狭になったので、平成16年には、浜脇整形外科リハビリセンターを建てました。
病院の方は建て増しで大きくしましたから最初に建てた部分は、耐震構造などで問題になりました。そのため平成23年に新築移転しました。現在地は市役所の前なので、バスや路面電車でのアクセスが良く、移転前よりも利便性が向上しています。
手術をするために開業したわけですから、今でも手術の多い病院です。開業して数年間は「個人病院がこんなに手術するわけがない」と、レセプトを怪しまれたことが何度かあります。
―スポーツドクターが多数在籍していると聞きました。
整形外科医はスポーツドクターとしての役割を果たさなければならないと考えています。私も開院から数年したころから、ハンドボールナショナルチームのチームドクターで、当時から海外に帯同していました。現場に医師がいて、メディカルチェックやケアをすることは、スポーツの発展に必要なことだと思いますが、当時はあまりなされていなかったです。10年ほどしてナショナルチームから退き、広島の企業のチームを診るようになりました。ゴルファーなど、プロのアスリートも来院しますが、ジュニアのスポーツ障害も積極的に診ています。そして私は社会貢献として、広島県ハンドボール協会の会長や広島県体育協会副会長をしています。
―出身は。
私は鹿児島県肝属郡東串良町の出身です。
広島市中区には、厚生省の中四国医務局(現中四国厚生局)という部署がありました。そこの局長が鹿児島出身の人だった頃があります。同郷ということで知り合い、中四国の国立病院が集まる研修会で講演してくれと頼まれました。「何を喋ってもけっこうです」なんて言うから、何を話そうかと迷いましたが、結局は経営の話をしました。
当時の国立病院は今と違い、医療のことだけを考えていればよかった。赤字になればたちまち閉院しなければならない我々から見れば、ぬるま湯に浸かっているみたいなものだったのです。「明日から赤字補填も補助もない状態で、国立病院を運営する計画を考えてみよう」というテーマで、聴講者に質問に答えさせながら講演をしました。エスカレートしすぎて、「諸悪の根源は医者」とばかりに言い放ちました。言いすぎたかなと反省していたのですが、事務部や看護部の人だけでなく、医師からも好評だったそうです。
それからのつながりで、国立病院とは縁ができ、岩国の国立病院で事務長をしていた人と、看護部長をしていた人が定年後に来てくれました。二人とも私と同じ年齢で、昨年度退職しましたが、とても優秀な人たちでした。私も昨年院長を退き、院長、事務部長、看護部長と若返り人事をしました。
昨年から若い職員が中心になって、子供向けの体操教室や、幅広い世代に向けてのセミナーを多彩に企画しています。
整形外科には高齢者がたくさん来ますから、年をとった人のことばかりを考えがちです。しかし長い目で見ればたくましい子供を育成することが、後々の整形外科疾患の予防になります。だから子供のスポーツを応援することは、整形外科の病院にとっては良いことなんですよ。
学校に出向いて、生徒へメディカルチェックをしたり、ストレッチなどの運動を教えたりしています。
―インドネシアから研修医を受け入れています。
南スラウェッシ州の州都マカッサルのハサヌディン大学病院から、整形外科のレジデントが研修に来ています。平成13年から受け入れているので、もう10年以上続いています。
私はカナダのトロント大学に留学しました。その時の費用は、カナダのファンドから出してもらっています。
当時カナダの整形外科は日本より10年も20年も進んでおり、その恩返しは発展途上国へと強く思い続けていました。
開業して間もないころ、広島大学に留学していたハサヌディン大学のヒアルディン先生が、当院にも出入りされていました。帰国され、初代の整形外科教授に就任されています。彼の依頼と、私の思いが合致し、当院での研修が始まりました。昔日本で先輩諸兄が現在の医療を築いたように、母国で大きな花を咲かせてくれると、夢を持っています。