宮崎大学医学部 外科学講座 循環呼吸・総合外科学分野 教授 中村 都英
教室は旧第2外科で、昭和54年の開院当時からあります。宮崎大学で4代目なのは私だけで、他の教室はまだ2代目か3代目です。しかし私は宮崎大学の教授として若いわけではありません。
佐賀出身ですが、初代の富田正雄教授が「将来出身大学がなくなるかも知れないよ」と言われたので、母校に残って第2外科に入局しました。富田教授が大学のことを憂えていたので、この教室に入局しようと決意しました。私も母校を愛してくれる学生を育てたいと考えています。
50を過ぎた平成19年に一旦退職し、骨を埋める覚悟で県立延岡病院に就職しました。長年研究に携わっていましたが、自分には現場の方が合っていると改めて感じました。陸の孤島のようなところで忙しかったのですが、のびのびと過ごせました。病院が地域の医師や市民向けに勉強会を開催し、何回も講師になりました。大きな病院が近隣にないので、頼られているし、患者さんが元気になる様子も多く見られる喜びがありました。3年後、大学に准教授で戻ってきて、幸いにして教授になったというところです。人手が足りず、教授になる前と変わらない数の手術を今でもやっています。
宮崎県は医師不足で、地域の第一線で働く人を育てなければなりません。ですから教育と診療に軸足を置いています。教室には若い医師が多く、今も多くの手術に立ち会って指導しています。臨床の楽しさを伝えることが一番の仕事です。
でも臨床をしていると、うまくいくケースばかりではありません。なぜ良い結果にならなかったかを考えることは大切です。良くならなかった問題を解決する必要性を感じて研究に進むと、臨床医としてさらに幅が広がると思います。誰も知らない問題点や良い方法があるかも知れません。自分で見つけたテーマには、与えられた課題や基礎研究にはない難しさがありますが、できる限りのバックアップをして、応援したいですね。
心臓血管外科が専門で、大学院では人工心肺の研究をしました。同級生と3人、大学のトラックで保健所に行き、成犬を一度に20匹ほどもらっていました。実際の手術で担当し操作した数よりも、野犬に操作した数の方が多いです。今ではもう、そういうことはできませんね。当時の論文を読むと「mongrel dog(雑種犬)」とよく書かれているので、一般的だったのでしょうけれど。今では野犬はもらえませんし、犬は高いので、簡単に実験できません。プライミングに必要な血液の確保のため、一度に3、4頭が必要なんです。
以前は検査が終わった動物を研究棟に連れてきて、ウエットラボのような手技の練習もできましたが、これも今はできません。今は2㎞ほど離れた農学部の獣医学科で動物を用意してもらい、そちらのキャンパスで実験などをしています。立派な実験施設があり、獣医さんが麻酔もやってくれます。
教室には心臓血管外科以外に、呼吸器外科と内分泌消化器外科の3つのグループがあります。患者さんの紹介は心臓血管外科が少しだけ多い程度で、3つはほとんど変わらないです。各グループ年に200例ぐらいです。心臓血管グループでは、大動脈瘤の患者さんが多いですね。富田教授が呼吸器外科だったという伝統があり、地域の先生方は肺癌の患者さんを多く紹介されます。また最近は、内分泌消化器外科に甲状腺癌の紹介が増えており、週に3人ほどこれの手術があります。県内全域の病院から紹介がありますが、県外からはほとんどありません。ただ、都城など県境の病院からの紹介は、県外の患者さんも多くいます。
近年ガイドラインがたくさんできて大変です。今までは、末梢血管が詰まったら手術ということになっていましたが、最近ではまず内科的治療をすることになっています。手術してくれと紹介していただいても断らねばならず、心苦しい気持ちになります。開業の先生方にガイドラインなど新しい知識を得てもらえると、もっと連携が進むと思います。教室の各グループが勉強会を開催していますので、時間があれば参加していただきたいです。
学生に外科の魅力を伝えることも大事な仕事です。学生はきついことを避けますから難しいです。3Kという言葉がありますが、外科医はそうではないと思います。精進して手術の腕を上げ、知識を得たら、早く仕事は終わりますし、「人が元気になる姿を見られる」という喜びがもらえます。外科医はスマートな生活ができ、そこに到達するために、少し時間が必要なだけです。
大学生の時は柔道部でしたが、医師になってから練習したら首を痛めてしまってやめました。外科医がケガをして、患者さんに迷惑をかけるわけにはいきませんからね。今では筋肉が落ちてスリムになりました。当時は今より3㎏ぐらい重かったんですよ。
名前が珍しいので読んでいただけません。しかし記憶に残りやすい名前かも知れません。都の字は、父が記者として勤めていた佐賀新聞の初代社長、中尾都昭(くにあき)氏からもらったそうで、英は父の名から継ぎました。まだ同じ名前の人には会ったことがありません。戸籍上は、都の日の上に一画点を打つんですが、あまり人には教えていません。
こういう仕事ですから、両親の死に目にも、兄の死に目にも会えませんでした。次男だという気持ちがあって宮崎に残りましたが、両親には申し訳なかったという思いもあります。実家は近くに住む妹が、たまに掃除をしてくれています。私も盆と正月は帰郷して掃除しています。