独立行政法人国立病院機構 東広島医療センター 院長 竹﨑 英一
―綺麗な建物ですね。
外来診療棟は平成24年の3月に出来ましたから、今1年半くらいですね。病棟は私が来る前の平成20年からありましたが、外来診療棟に関しては副院長時代に要望を述べました。
第一の要望は、医局を広くしたいということでした。病院は医師が充実していないといけませんから、医師が働きやすい環境を整える必要があります。当時の員数としてはかなり広い部屋を作ったのですが、今医師が増え手狭になり始めました。なので、今度新しく医局を増やす計画もあります。
それから会議室を広くしたいと言いました。例えば当院は医師会の先生などを呼んで研修をしたり、看護師の研修をやるのに、会議室だけは広くしたいという気持ちがあったんです。この時作ったのは300人が研修を受けられますから、広いと思います。
また、医師が勉強できるきちんとした図書室を作りたいと思いました。当院は癌の拠点病院なので、患者用の図書館は当然作るのですが、それとは別に医師用が必要だと考えました。医師の読む物は電子が主ですが、それでもある程度の施設が必要だと思います。加えて、臨床研究部に研究実験室を含めて、きちんと部屋を与えることを要望しました。
当院の医師は殆んど広島大学の出身です。
国立療養所畑賀病院と合併した経緯があるのですが、そこも広島大学の系列病院だったので、他大学の出身者が増えるということはありませんでした。
良い面はたくさんありますよ。お互いのことを事前にある程度知ることが出来ているのが、やはり良いことです。
―平成24年に産婦人科を作ったと聞きました。
今東広島で一番出産を診ている先生は、70歳くらいだそうです。年間600件くらい取り上げるそうですが、もしお辞めになったら大変なことです。半分の300件くらいは、今後当院で受け持つべきでしょう。
東広島市の年齢別人口分布は、逆ピラミッド型ではなく、樽型なんです。若い人が多いから、周産期に力を入れたいというのは、市の意向です。
しかし東広島市には市立の病院がないんですね。ですから、当院が市からの補助金をもらい、周産期センターを作りました。
当院の総病床数は401床で、このうちの50床が産婦人科ですから、今当院にとっては負担になっています。備えていること自体に意味がありますが、ここのベッドが埋まるように宣伝をしなければいけません。
まだ産婦人科はできたばかりで、不慣れな面もあります。NICUやGCUを支える看護師も今後もっと教育していかなければなりません。
―市からの補助でヘリポートも作っていますね。
東広島の地域医療圏、中央医療圏、二次中央医療圏には、公的病院が当院しかなく、他は民間病院です。それで当院にヘリポートが出来ました。市はそういう意味で、他にも助成金をくれています。
ヘリで上から降りてくる時、ここは大きな池があってきれいだと言われますよ。
広大救急医療の谷川攻一教授もヘリで来られましたが、「きれいです」と言われました。私は残念ながら、ヘリからは見たことはありません。
ヘリポートは市の補助金で作りましたので、開業医の先生たちも利用されます。
―広い敷地ですね。
私は以前呉医療センターにいたのですが、元は海軍病院で広い敷地を持っていました。しかし当院はそれよりもはるかに広い。6千300㎡。ここから見える山の中を走る山陽道から手前が、敷地です。400台の駐車場と300台の職員用駐車場があります。
通常使う部分でも、宿舎や廃校にした看護学校の跡地など、広い範囲を活用しています。看護学校の体育館は、現在レクリエーションで使っていますが、買ってくれるところを今は探しています。一応売却予定です。
しかし国立病院機構にはここより広い病院があるというから驚きです。10月の初めに理事長が見学に来られたのですが、そう言われました。
―以前は結核を診る病院でしたね。
今も結核病棟16床があります。
ほかに感染症病床が4床あります。広大な敷地の理由の一つです。離れた部分に30床の休床している病棟がありますが、ここは感染症が大流行した時に使用することになります。当院は県の感染指定病院でもあります。
急性期病院になって5年ほどですが、今も療養病棟のイメージが強いので、ここ数年で多くの努力をしました。以前は呼吸器に強い病院でしたが、今は特にそれだけ強い病院ではありません。
DPC、電子カルテ、地域医療支援病院。当院が近年急速に進めてきた急性期病院への転換には多くの職員の理解と協力があり、全職員に感謝しています。
急速に組織を編成しなおす間に、病棟の移転もありますし、普通これらを全部やるならば10年くらい時間をかけてゆっくりとやるべきだと思います。それを5年ほどで全部やってしまいました。職員は良く戸惑わず、頑張ったなと思います。
来年は増築して、手術室と放射線科を拡張予定です。手術室は5室から8室に増えます。放射線科は治療を別の部分で行ない、新しい機械を入れます。そして、今の部分全部を血管造影などの診断部門にします。今、放射線科の医師を一人探しているところです。
当院は毎年毎年、変わり続けています。まだまだ発展途上で、発展させる楽しみがたくさん残っています。大変ですが、職員みんなで誇りと自信を持って、成長を楽しみたいですね。
当院には、外科に臨床准教授の腕の立つ先生がいまして、学生がその先生の手技を見に当院には来ます。実習で人気のある病院です。
現在急性期病院として発展していく上で、研修医の確保は重要な課題です。当院は今2名の研修医を受け入れていますが、来年は大学の枠を1名もらって3人に増やしてもらいました。今後も常に3名取れるような体制を作り、医師は増やしていきます。
―国立病院機構の中四国ブロックの支部が敷地内にありますね。
やりにくいということはありません。近くにあっても、支部が運営に他院よりも余分に介入してくることはありません。平等に扱ってくれています。逆に近い分、要求を伝えたり、相談しやすく、とても良い環境だと思っています。
当院の隣に、当院が管理する研修施設がありますが、建てたのは支部で、支部の研修でも使っています。その建物には、当院の手術研修医指導のシュミレーションや挿管の練習をする器具などが置いてあります。
以前は、看護学校跡の前にあったのですが、そこは今倉庫になっています。
―ご出身は。
今本籍は広島に移しましたが、生まれは熊本の天草です。本渡の辺りの坂瀬川。富岡に近い坂瀬川という所です。実家はもうありませんが、墓参りに年一回行くんですよ。
天草は田舎で、私が子供の頃の天草の診療所はのんびりしていました。そういう医師を見て育ちました。私は釣りが好きですから、海のそばに診療所を開いて、魚を釣りながら患者を待つような生活を夢想したんです。
のんびりとした生活にあこがれて医者になりましたが、しかしのんびりしたことはありません。忙しいところばかりです。また、社交的ではないので、サラリーマンは無理だと思って医学部に入りましたが、医者こそ社交的でなければ勤まらない仕事ですね。
私は若い人によく「人生はまず流れなさい。全て流れて行って、その中で右か左か分かれる時、それも流れていきなさい」と言います。私はそういう考え方なんです。そうして流れていたら、望んだ生活とは全く違う暮らしをするようになりました。
しかし毎日充実しています。今は何も後悔していません。