福山市民病院 院長 高倉 範尚
高校は前楽天監督の野村克也さんと同じ京都府立峰山高校です。当時の蜷川虎三府知事が「15の春は泣かせない」と高校浪人を作らない政策をとっており、京都府は小学区制でした。京都と言っても日本海側ですから、雪が1m以上積もる地域です。その後、岡山大学に進み、消化器外科医になりたいと卒後第一外科に入局しました。
私には4人の恩師がいます。1人は小学校の理科の先生、3人が医師です。
医師の一人目は最初に働いた倉敷市の松田病院で当時副院長であった岩藤隆昭先生。人に優しく患者さんや一緒に働く仲間から人気もあり信頼されておられ、そういう医師になりたいなと思いました。私の住む寮の隣に自宅があって、毎日お宅で朝夕ご飯を食べさせて頂き、風呂にも入らせてもらっていました。岩藤先生からは「人への優しさ」、「慈しむ心」を学びました。
二人目は当院の2代前の院長、成末允勇先生。私がいた頃の松田病院では消化器のメジャー・サージェリーがあまりなく、私は手術症例を経験したかった。それを大学に打診したところ、開院前の当院を紹介されました。新しい病院だから大学のしっかりとしたスタッフを外科に送り込もうということだったようです。そこに卒後すぐに医局で私を指導してくれていた成末先生がおられた。だから喜んで赴任しました。赴任当時は院長が岡山大学第一外科の現職教授の田中早苗先生、成末先生が外科のトップで、その下に卒後12年目の石川先生、次が私。香川先生が1級下にいて、4級下の大崎先生。この5人が当院外科のオリジナルメンバーです。
成末先生には「手術に妥協はない」ことを教えられました。膵頭十二指腸切除術の難しい手術で8時間、9時間とかかかって、お腹を閉めたら終わりという頃、膵臓と腸をつないだところの色が少し悪かった。みんな疲れていたし、放っておいても大丈夫かも知れない。だけど成末先生は「やりかえよう」と言われました。全部外して3時間くらいやる。信念でした。「手術は絶対自分が納得しないといけない」ことを教わりました。
私が胃の全摘を初めて執刀したのは当院です。医師になって7年目でした。排菌はなかったのですが、当時結核にかかっていて患者さんを受け持ってなかったのですが、大学に帰る前に石川先生がご自分の患者さんの手術を私に執刀させてくれました。石川先生が第一助手、成末先生が第二助手、田中教授が第三助手。感激でした。もちろんどんな手術にも思い入れがあるわけですが、その中でも最初に経験した胃の全摘というのは忘れられない手術の一つです。後ろ髪を引かれる思いで退職し、大学に戻りました。
三人目の恩師は大学に研究で帰った時の研究室のトップで、当時助教授だった三村久先生。三村先生には肝胆膵外科の手術を学びました。先生は新しい手術を創造・開発する、本当に医師として素晴らしい人です。先生のされる手術は、高難度の手術であってもいとも簡単に見えました。当時の私にはとても出来るわけはないのですが、「これなら出来る」と思わせるような手術です。私は名手の手術には「こんな手術はとても出来ない」と思わせる鮮やかな手術と「手術は難しくないのだ」と思わせる手術の二通りがあると思っています。三村先生の手術はずっと私の目指してきた手術ですが、先生の独創性にはいまだ足元にも及んでいません。
その後庄原赤十字病院に赴任したのですが、ここでは気持ちよく仕事が出来ました。過疎地で医師は大切にされますし、土地の人もいい人ばかりで。そこで3年経ったころ、国立福山病院(現福山医療センター)の外科のトップで後の院長の桑田康典先生から来てくれないかと要請がありました。私は庄原赤十字病院で外科医として充実していたので、あまり乗り気じゃなかったんです。そうしたら三村先生から電話がありました。「自分の外科を造れ」と。庄原赤十字病院は外科3人。当時の福山国立病院には9人ほど外科医がいたと思います。私はそれまでは自分の外科手術を磨くことばかりを考えていましたが、先生の言葉で人を育てることに興味を持ちました。それで福山へ行ったわけです。国立福山には6年間いましたが、多くの若い医師を指導することが出来ました。その中の一人は今、当院の乳腺外科のトップで頑張ってくれています。
その後、大学で肝移植の立ち上げを手伝いました。私は摘出する方を担当し、岡山大学の肝移植の2例目から20例目までを執刀しました。その後、広島市民病院に赴任し、5年前に当院に帰ってきました。
成末先生とはいつかもう一度、今度は先生の役に立つ形で一緒に仕事をしたいと思っていたのですが、先生が送別会で贈って下さった「人は落ち着くところに必ず落ち着きます」という言葉を思い出して当院を含め「どこそこの病院に行きたい」という希望は出したことがありません。恩師の言葉ですから守ろうと。しかし結局、縁あって帰ってくることになりました。
当院は私の消化器外科医としての原点の病院であり、とても嬉しかったのを覚えています。もっとも、殆どの職員は私のことを知らないし、上手くコミュニケーションを取る必要がありました。私が帰ってきた当時の臨床検査科長や今の薬剤科長、放射線科長は昔遊んだ仲間ですし、事務や看護師さんにも何人か知っている人が残っていましたけど。
とにかく、私を知ってもらうには情報発信をしないといけないと思って、職員であれば誰でも読める電子カルテ等を扱うシステムに、院内のイベントやニュース、医療に対する私の想いを書き綴ったりしています。エッセイというほどのものではありませんが、一部は病院のウェブサイトからも読めますよ。「院長室より」というコーナーにアクセスして下さい。
当院は今年の2月末に西館の増築が完了し、5月から病床が400床から506床に増えました。増床のコンセプトは、がん治療と救急医療、それと産科医療の充実で、これで地域の保健対策協議会や県の医療審議会に認めて頂き、県知事の認可を頂きました。がんに関して言えば、PET│CTを5月から導入しPET診療を開始しました。これまで福山にはPETがなく、当院では岡山の画像診断センターや川崎医科大学に紹介状を書いていましたからこれは便利になりました。また以前は8床しかなかった化学療法室を20床に増やしました。新病棟5階には無菌室を5室新たに作りました。さらに内視鏡部門を内視鏡診断・治療センターとして新たに西館2階に作り、拡充強化しました。
広島県の東部では当院にしかない三次の救命救急センターがありますが、救命救急センターは外へ向かって開いているものですから院内患者を入れるのは好ましくない。それで院内の急患や大きな手術後の患者を受け入れる集中治療室を12床新たに作りました。これで救命救急センターの24床がしっかりと院外の三次救急に対応できるようになりました。手術室も7室から10室に増やしました。
産科医療は今後の課題です。
その他西館には一般の患者さんと動線や診察スペースが決して交わらないように感染症診療スペースも作っています。
それから西館1階には240人ほど収容できるホールを作りました。病院の1階にホールがあるのは珍しいと思います。このホールを私は「Hall CoRe」と名付けました。Coはコ・オーディネーションやコ・オペレーションなどの「協働」の意味、Reはルネサンスなどの「再生」「再興」です。その他、Reを分解して、Rはレソナンス(共鳴)、eはエデュケーション(教育)の意味も含ませています。教育研修がしっかり出来る病院を目指すということが私の目標の一つで、使命だとも思っています。このホールはそういう場になってほしいという考えで作ったものです。
当院は今年もフルマッチでしたが、研修医の定数は1学年6人で少ないと感じています。研修医を受け入れることで病院には活気が出てきますし、指導医の質も上がるように感じています。これからも研修医に選ばれる病院であることも大きな目標です。
最近は直接若い外科医を指導することはなく、真の意味でのウンテン(弟子)と言える人はいません。一昨年、当院に肝胆膵外科学会の高度技能専門医を取得するために赴任してきた先生と一年余り一緒に手術を行ったことが指導と言えたでしょうか。その先生は昨年の5月に見事に審査に合格し、今は次の医師を育てています。
「弟子」というのは若い医師と濃密な時間をある程度一緒に長く過ごした場合に、そう呼べると思っています。私には今、院長としての仕事があります。当院には優れた外科医がいますから、今更外科医として若い人を私が教える必要はないと思っていますが、折に触れ「外科医の在り方やスピリッツ」を伝えたいとは思っています。それが外科への恩返しだと考えていますから。