作家森鴎外は石見国の生まれというから、島根県の出身だ。東京帝国大学出身の医師で、後に陸軍軍医総監にまで昇進している。鴎外は明治32年から2年ほど、第十二師団の軍医部長として福岡県の小倉に赴任していた。軍人としての功績の1つとして挙げられるクラウゼヴィッツの「戦争論」翻訳時期も、この頃である。
福岡県飯塚市の商店街で、鴎外の逗留を記念する碑を見つけた。碑文によると、明治34年の7月、師団の衛生隊演習のため、飯塚に来ていたようだ。5日は雨で、呉服屋に泊まり、嘉穂郡長や飯塚警部長、飯塚町長などを招いて立食パーティをしたようである。6日は淹留とあり、7日は日曜日で、上三諸(飯塚市内の地名)で演習をしたらしい。史料をひもとくと、3日に小倉を発ち田川を経由して飯塚に入ったようだ。飯塚は小倉から程よく離れており、演習するに適した土地だったのだろう。
鴎外の軍医としての仕事を語る上で外せないのは、日本最初の医学論争と言われる「脚気論争」だ。鴎外は東大医学部の出身で、緒方正規の脚気が伝染病であるとの説を強く支持した。北里柴三郎が反論し、緒方と対立する一因ともなる論争だが、この二人は共に熊本出身である。一方海軍では、高木兼寛が栄養欠陥説をとり、糧食をパンや麦飯にしたため脚気患者が激減した。白米にこだわり患者を増やした陸軍とは対照的である。高木は日向国(宮崎県)出身の医師で、東京慈恵会医科大学の創設者。後に海軍軍医総監にまで昇進している。