患者さまのために これほど奥深く、 明確な言葉はない

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医療法人財団 友朋会 嬉野温泉病院 院長 中川龍治

1985 鹿児島大学医学部卒、佐賀大学医学部精神医学教室入局 1990 嬉野温泉病院勤務医 1992 同理事・副院長 1995 同院長 2000 同理事長・院長就任、現在に至る。日本精神神経学会専門医日本認知症学会専門医

 前理事長で嬉野温泉病院創設者の中川保孝院長は、現理事長の中川龍治院長が小学生のころから、ことあるごとに「患者さんのために」を口にしたという。それだけを、おそらく何万回も口にしただろうと話す。その真髄について聞いた。

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医療法人財団 友朋会 嬉野温泉病院 院長 中川龍治

 前理事長の中川保孝が、なぜ精神科医になったかという説明をしますと、昔の医学部の教育でしたので、インターンという制度がありました。九大医学部のインターンの時に初めて精神科を見て衝撃を受け、日本の精神科医療はこれではいけないと思い、そこで精神科医になることを心に決めたということがまずあります。

 さらに、学生時代から描き始めた油絵が二科展に2年連続入選して、医者になろうか、画家でもやっていけるんじゃなかろうかと迷っていたところに、3年目に落選し、精神科を目指そうと決意したそうです。そして、今までの延長線では精神科病院を変えられない、だから、ぱっと目に見える、精神科病院らしくない精神科病院をつくらないと変われないと、全く違った見方で自分の病院を作ろうと決意したという流れになります。

 当時の精神科医療は治療方法が非常に少なく、家でみる代わりに精神科があるような状況で、前理事長が医者になったころにようやく抗精神病薬が使われ始めた時期でした。それまで薬がほとんどなかったんですね。

 そしてインターンから九大の精神科の医局に入り、絵画を精神科医療に生かせないかと考え、絵画療法を学ぶために東京の東京慈恵会医科大学に行き、精神障害者の絵画の研究で博士号を取りましたそういう自信も得て昭和37年に九州に戻り、いくつかの病院に勤務したあと昭和40年に嬉野病院を開業したわけです。開業当時、患者さんが社会復帰できる精神科病院であること、自分が研究してきた絵画療法、芸術療法を実践的にやっていきたいと目標を立てました。

 前理事長は、「医療は患者さんのものだから公的でなければならない」とよく言っていました。それで借り入れの返済が終わった昭和43年に財団法人にしたんです。

 すべての行為が患者さん中心の医療提供に徹していて、精神科医療を世の中に示したいとの大志があったと思います。

 私はそのように聞かされて育ちました。そして自分がこの病院に入って、前理事長が亡くなった平成12年に医療機能評価を受ける予定があり、理念を文章にしないといけないので、すぐに前理事長が唱え続けていた「患者さんのために」としようとしました。

 しかし、前理事長の話を聞いていた職員はわかりますが、そうでない職員が「患者さんのためにしてあげましょう」という上からの態度になる事を危惧しました。そのため当初は「友朋会は医療福祉を受ける立場になって考え、地域医療に貢献できるよう努力、精進いたします」としました。

 2回目の機能評価更新の時に「患者さまのために」と変えました。簡単すぎやしないかとの意見もあったんですが、これが一番みんなに浸透しているし、お互いが一致団結できる言葉だろうと思いました。私にすれば元に戻したという感じです。

―一番大きな改革は。

 前理事長の時代には理想的なことを次々に展開していたので、106床で始めた病院が昭和61年には、精神科、内科系を含めて770床になっているわけです。昭和40年代から患者さんの社会復帰部門を立ち上げ、住居や職親制度を準備して、患者さんが安心して退院出来るように、内容的にもたくさんのメニューを用意して取り組んできたんですね。平成元年には老健施設を建て、グループホームなども揃えていったんです。

 私は途中からその中に入り、この病院には何が足らないか、何をやるべきなのかを考えた時に、ソフトだったんですね。

 急激に大きくなったために、医療として他に無いメニューや大きな器を持っていながら、働き手が組織的に動けるシステムになっていなかった。時代が違うこともあったでしょうが、個人の能力に依拠して、人を育てるツールも弱かったんです。

 今748名の職員がいますから、どうやれば意志統一ができ、私のやりたいことや、こうありたいと考えいることが職員に浸透していくのかも含めていろいろ工夫をしていきました。

―700名を1つの方向に向けていく工夫というのは?

 一番大切なのは透明性、できる限り正直にということだと思うんですね。だから病院の収支も、ここまでする必要があるのかなと思いつつ、部門別に細かい数字まで全部公開するようにしています。

 患者さんのためを考え、作業療法士27名、心理士11名、理学療法士15名、ソーシャルワーカー24名を配置し、ドクターも早いうちから定数確保が出来ました。そういうところにかけるべきお金はかけていることを全職員に伝えるようにしています。

―現場のことが理事長まで上がってくるボトムアップはどうされていますか。

 これは機能評価でも評価されたんですけども、まず私が年度目標を立てて1年間の方向を示すんです。それから予算の策定、事業計画を立てます。それを現場で受けて、各部門が目標の数値をあげます。そして月に1回、各部門の責任者が集まって目標の達成状況を報告してもらう。数値にしてあるから全体がよくつかめますね。他に経営者の会議を週に1回やっています。ほかにもいろんな会議をやって情報を共有するようにしています。

―芸術療法について。

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嬉野温泉病院を初めて訪れて感嘆の声を上げる人は多い。約17万㎡の敷地に、20あまりの機能別分棟式施設が並んでいる。

 前理事長と私のやり方は当然違います。以前の芸術療法は前理事長と芸術療法士という専門職のみが行っていました。しかし今は、ワークショップで職員がまず体験し、患者さんはこんなことをやっているんだと理解をしてもらって、作業療法士を中心としてやっています。そうしないと長続きしないだろうと思ってのことです。今は、芸術療法士に加え、作業療法士も心理士も芸術療法をやります。そういう意味でも全職員への浸透度合いというのも変わってきたと思います。

―高齢化社会でこの病院はどうなっていくのでしょう。

 我々のように長期の患者さんを診る立場で世界を見渡した時に、これだけの医療費で、これだけのサービスを提供している国はどこにもないんです。その良さを医療費が膨張していくという理由で抑制する方向になっています。ベッド数が多いことや、高齢者が多いということで医療としての枠をせばめようとすればいろいろな面で質が落ちますから、少し不安を感じます。

 そうなった時に我々はどうすればいいんだろうと、その策をいろいろ考えていますが、やはり理念の通りに「患者さまのために」に目を向けて、地域のニーズにより一層対応出来るようにしていこうと思います。

 患者さんから「嬉野温泉病院に入院したい」と思われる病院になること、こんな治療をしてほしいと言われた時に対応出来るようにしていこうと、いろんな分野に多方面から取り組んでいます。

 平成8年からスクールカウンセラーに私が行き出して、学校現場の非常に厳しい状況を見て、うちで出来るのはこういうことだろうと児童思春期外来を10年前から始めて、徐々に軌道に乗ってきましたし、そういったことも併せて、この地域に嬉野温泉病院があったから助かりましたと言われるような医療への取り組みは、少しずつではありますけどやっています。

 「患者さまのために」という言葉一つから始めると、ほとんどの事業が赤字から始まるんですよ。でもそのうちに、いろんな面でトータルにうまくいくようになります。本当に必要とされるものをやっていけばですね。

―ストレス解消としての趣味はありますか。

 私自身はスポーツが好きで、野球が特に好きなので、ちょっと前までここの医局で野球チームを作ってもらって、年に1、2回試合をしていましたが、ここ数年は試合をしていませんね。ゴルフも最近は出来なくなって、夜ウォーキングをやっているぐらいですね。


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