ゴールデンウィーク中はあわただしくしながら、「消化」について考えていた。3月20日号の「翻訳と土着」(施光恒九大准教)がきっかけだ。
東北や山陰地方、あるいは関西や関東、九州出身の優秀な大学生が、文学を学んで作家になったとすれば、その作品は、各人の育った地方色や生活環境が色濃く反映されたものになる。そうなって当たり前だし、そうならざるをえない。
日本で米国のロック音楽やフォークソングに触れた人が、それを極めようとすればするほど、彼の音は日本化し、彼らしくなる。真髄を極めたら、その人自身の音楽、つまり、よろこびも悲しみも含んだブルースになる。
作文技術も演奏技術も道具である。その道具を手にして、長けた人は自分を表現する。長けているほどそうなる。単に技巧に走るだけでは、テレビに多く登場する日本人ラッパーのように、帽子をはすにかぶってなんとか黒人らしく見せようとするこっけいを演じることになる。ほとんどダサく、バタ臭く、イモっぽくてセンスがない。
自分の見聞きした事象はことごとく、その人の中で姿を変えて定着する。日本人ラッパーのイモっぽさが好例で、それこそ彼そのものだ。ラップは彼の中でイモになった。小手先で気取ればいいとする彼の人生観が見事に表現されている。
見聞きした事象が自分の中で姿を変えて定着した時、一般の人はそちらをまがい物だと思う。だから新たな発想や連想を引き起こさず、ゆえに創造につながらない。せっかくのオリジナルを捨て、外にオリジンを求め続ける。それは、自分の郷土や経験に確信を持てないがゆえのことだろう。取り込んで形を変えることを良しとする人は、その逆だ。