社会医療法人財団 池友会 福岡新水巻病院 院長 藤井 茂
■日本心血管インターベンション学会認定医、指導医 ■人間ドック認定医
―医師の確保は充分ですか。
臨床研修制度を8年前からやって、3年目以降に残ってもらう研修医を育てているので全然困っていないですね。
ポイントは、若い医師が何を求めているかです。いい医者や看護師は日々忙しく働いてた方がいいんですよ。うちは特に症例が多いので、若いうちから、どんどんみせますから、きついけど楽しいという雰囲気は充分あると思います。
研修医募集係を大学に派遣して、心と体力が強そうな候補を連れて来て、僕が面接する前の晩に上級医といっしょに当直させるんです。内申点を取るわけですね。上級医が、あれはだめです、目が点になってましたと言えば翌朝帰ってもらい、彼はいいですよと言ったら僕がいろいろ講釈して、うちに来て3年か4年経ったら国内留学してもらうよと約束するんです。私も池友会グループの第1期研修医で国内留学に行き、今は院長になっとるもんなとか、夢物語みたいなことを言うわけ。
毎年50~60人連れて来て採用するのは6人です。超急性期で忙しく、体力重視というのはわかっていますから、3年目に残る可能性のある人を最初から引っ張るわけですよ。将来の幹部候補生になるかどうかも含めて。
―医者になったわけは?
電気いじりが好きで電子工学をめざしていた時に、身近な人の健康状態が悪くなって、周囲の助言もあって医者になったんです。電子工学が伸びるのがわかっていましたから、本当はそっちが良かったかもしれませんが、隅々までていねいに診ることには生かされていると思います。本当は分析的に科学者として治療しなければ、患者さんは迷惑でしょうが、とっさの判断、直感というのはあります。一瞬の勘で患者さんが助かる診療っていうのもありますから、どちらも必要ですね。
―若い時と今の人生観に変化はありますか。
死に対する考え方とか、死を迎える家族に対する考え方は当然変わりました。人が人を診る、この重さですよね。すごく重い。それから達成感の強さ、うまくいかなかった時の悲しみや苛立ち、怒りとかですね。人間をみる特異の世界ですから。
―そこをどう越えますか。
もう乗り切るしかない。切り替えなきゃだめなんです。研修医が初めて死を看取った時、見送った後に泣いてますもんね。国家試験を通ったばかりの普通の若者ですからね。私も当時は同じでした。
今年、うちの息子が和白の研修医になったんです。娘もいま山口大学の医学部で、1番下だけ音大に行きましたが、子供たちに何を目指せと言ったことはないです。それだけ会話がなかったのかもしれないけど(笑)。
これだけ苦労して働いて、責任が重くて、夜中に呼び出されて、というようなことも子供は見ているのに、それでも医者になるんですよ。
―将来の計画は。
ここは池友会の中でも救急車が1番多いですから、強いところはもっと伸ばしたい。そのためには若い力が必要です。この病院もこの6月で丸10年になりますが、当初の部長が全員残ってくれて、これも強みなんですけどね。だから部長もみんな10年歳とってきてるから、5年後くらいには少し入れ替えることになるかもしれません。
―院長の趣味は?
趣味はこれです。これは3枚目のCD。全曲オリジナルです。ブルース、ロック、フュージョンです。女性ボーカルが1曲、あとは全曲演奏だけです。
中3のときにディープパープルが来日したのでコンサートを広島へ見に行き、ロックから始めたんです。大学に入ったころから少しジャズっぽくなり、それがフュージョンになった。
―病院内で院長の位置付けはどうなっているんですか。
ほぼ毎日、夜の界隈に出て行っていますから、それでリスクを考える人もいるみたいです。院長がそれなりの壇上に上がるのはいいんでしょうが、ミュージシャンには、普通の人から見たら怪しげなやつもいますからね。実はみんなフレンドリーで優しいのですが、リスキーと考える者もいます。
ブルースは魂の音楽だと言いますが、憎しみであり、悲しみであり、よろこびです。
YouTube で「ピストン藤井」と検索したら見られますよ。ちょっとふざけた芸名ですが、小文字病院時代のサッカー部に「ピストンズ」というチームがあって、「先生ちょっと芸名をつけてください」と言ったら、「とりあえずピストン藤井でいきましょうか」って。そしたらそこそこ有名になってしまって、変えられなくなっちゃって(笑)、もういいやって。