特定医療法人三佼会 宮崎病院 / 宮崎診療所 實藤医院 / 東本町診療所
理事長 宮崎 久彌
■日本脳神経外科学会、日本脳卒中学会専門医。
2013年版読売新聞社刊の「病院の実力」で高い評価を得た諫早市の宮崎病院。30 年前に創業した宮崎久彌理事長の趣味は陸海空の乗り物。北九州時代はセスナを借りて空を飛び、その後はヨット。8 艇を乗り換え、今は太平洋も航行できる大型船のオーナー。バイクも1000cc 以上のクラスを3 台所有している。BMW 水平対向2 気筒のR-1200 と4 気筒のK-1200。それにYAMAHA1900XCU。
さぞかし奥さんは苦労されただろうと思って妻の幸子さんに後日確認したところ、「セスナを買うと言い出した時は反対しましたが、あとは本人まかせ。私は後をついて行っただけです」とのことだった。(取材と写真=川本)
―病院を創業されたきっかけは。
北九州の救急救命センターが立ち上がるからしばらく行ってくれと大学から言われ、研修医を連れて3年ほど勤務したことがあるんです。そのころの脳神経外科は時間との競争で、昼夜を問わず、家にほとんど帰りませんでした。その後また大学に戻って指導してくれと言われたんですが、私は教育者になるより臨床に興味が強く、自分の病院を作ったほうがいいと考えたんです。
患者さんから選ばれる病院は、施設も医師も魅力があるのが条件で、高所から「来たら診てあげるよ」という姿ではうまくいかない。病院作りは医師の顔づくりでもあるんです。開業した1982年当時、脳神経外科の開業医は全国的にも稀で、医局の連中も、脳外科で開業してもだめだよと言いました。だったら交通の便のいいところで始めようと考え、出身は長崎市内ですが、人の流れに注目してこの地(諫早市久山町)を選びました。 1人の患者さんを手術する時、親族が大勢集まります。細やかな説明を何十回、何百回繰り返しているうち、相当数の人に当院が知られるようになり、私の意向も伝わっていきました。病院といえども資本主義社会の中にいるからには、いかに努力するかが重要です。
脳外科の周辺には様々な科が必要です。胸部や腹部に影響が出る場合がありますから、コンパクトな総合病院を作る必要が出てきます。最近ようやく安心して手術ができる状況になりました。
―創業への心構えは。
何でもそうでしょうが、やはりオンリーワンをめざすことでしょうか。それのないナンバーワンはありえない。突き進んで行けば苦労や困難が待ち受けています。そこに助けてくれる人が現われる。多くの人のおかげで今があると思うし、八百屋さんの段階を超えてしまうと、社会の財産だという発想を抱かなければいけないと思いますね。長崎県の脳卒中の半数以上はうちが診ていますが、急性期だけ診て、あとはよそでというのでは、患者さんは困惑するし医師にも達成感が生まれません。地域連携も大切だけど、自己完結型の医療も組み入れる。政府の医療施策に従うだけでなく、自分なりの考えが必要です。それで、住民が病気にならないように有料の健診センター(宮崎診療所)を開設しました。年に7千人くらい来られます。予防医学から通所リハまで含めた医療形態が求められるでしょうね。
―そういったモノの見方はどこで習得を?
たぶん右脳(イメージ脳)に恵まれたのではないかと思いますね。病院が発展するには10年かかりますが、過去を振り返ると、自分たちを再評価してもらい、再認識してもらおうと考えました。そのためには大きな動作をしたほうがいいので、診療所を作ることになりました。今の国道は裏側にあったのですが、松林が宅地造成された時に土地が光って見えた。だからここに建てようと。10年先をイメージするのは大切です。
―どんな子供でしたか。
野良を走り回っていました。そういうことが、言うならば右の脳を育てたんでしょう。今でいうゆとり教育が自然の中にあったと思いますね。
今の子供には基準が必要です。道徳やしつけなしに自由だけ与えるから、子供はどうしていいか分からず身勝手な大人になります。子供を連れて外来に来る親を見ていると、戦々恐々として自信のなさそうな人が結構いますね。「それしちゃダメ」ばかり言っています。
趣味ですか? ストレス解消にバイクに乗ることですね。あとでお見せしますよ。