視点を変えれば見えてくるものがある

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独立行政法人 国立病院機構 都城病院 院長 小柳 左門

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Profile
昭和23 年佐賀県生まれ。
昭和41 年福岡県立修猷館高校卒
昭和48 年九州大学医学部卒
九州大学医学部循環器内科助教授、国立病院九州医療センター臨床研究部長、国立療養所福岡東病院副院長などを経て現職。

「小さい時からなんとなく医者になりたいと思っていましたね。野口英世やシュバイツアーの偉人伝を読んで感動し、人を助ける仕事をしたい気持ちが自然に芽生えていたのかもしれません。戦後という時代もあって、みんな科学の方に目が向いていましたが、その一つに医学がありました」。

医者になった動機を小柳院長はそう話した。人口およそ17万人の都城市。南九州では鹿児島市、宮崎市に次いで3番目の静かな町である。「水がきれいで、食べ物もおいしいんですが、ちょっと残念なのは福岡から遠いことです」。現在の医療を見つめつつ、これから求められることについても語ってもらった。

医学の進歩は、人を助けたいと思う限り続きますが、超高齢社会になって大事な問題は、病気というのは治っていくものではないということです。

仏陀の言う生老病死は、永遠に変わらないわけです。ところが治るものとしての科学にばかり力を注ぎ過ぎて、人間全体を見ていなかったということがあります。

ほとんどの人たちは病気で亡くなります。純粋な老衰はめずらしく、みんな何らかの病気で亡くなっていくわけです。そして、その亡くなり方が本人にとって大事なんだ、と思います。

尊厳死の問題であるとか、極端な例では安楽死とかもありますけれども、それはみんなの心の中にあることですよね。たくさん病気があって、自分もいつかそんなふうになることを、みんなが分かっているわけです。

医師は患者の価値観を感じているだろうか。

私は心臓が専門です。心臓のよくない患者さんは、ずっとその病気を抱えながら、残りの人生をどう歩んでいくかが大事な価値観になってくるわけで、病気を治すことだけが価値ではありません。

病気は治ってほしいけれども、それだけが価値ではなく、どう病気と向きあっていくか、あるいは病気といっしょにどう生きていくのかというふうに視点を変えていかないといけない。病気は人間の敵じゃないんです。

もちろん病気にならない方がいいし、なれば医者として治療していくわけですけれども、それを完全に克服しようとか言うのは、現実でも理想でもないと思うんですよ。そうではなくて、病気を持ちながらどう生きていくかの方が、今は大きな問題として問われてきているわけですね。

だから寿命も、一般的には長く生きる方がいいんですが、最期は孤独の中で亡くなる人もあるし、病気で苦しむ人もいる。いろんな人たちがいるわけですから、それにどう寄り添っていくかというのが、いま医療で大切になっている、ということです。だからこの病院で新しい病棟を建てる時にも、地域がん診療拠点病院として、緩和医療を重視する作りにしました。職員にもそのような視点でものを見てほしいなあという気持ちがあります。

患者さんが生きていくということは、全人格で生きるわけですから、家族があり社会があり、自分の生き方があり、信念を持っている人もたくさんおられるわけですね。その中に、生きていく価値観があるわけですから、それは大事にしてほしいと思うわけですよね。そこまで私たちは立ち入られないけれども、病気がすべてだと医者が思ってしまって、全部それで振り回すと、患者さんの大切な価値観を失わせてしまうことだってあるわけですよね。

端的な例でいえば、スポーツをしたいけれども病気があるからできないという問題があります。

小中学生で心臓病が疑われたら、運動をやめなさい、体育の授業も出ない方がいいと医者から言

われることがある。でもそれは、時に行き過ぎることもあります。その人のせっかくの一生を、安全を図り過ぎて大きく変えてしまうことがしばしばあります。

安全志向であまりにも安全を大切にするために、その人の別の価値観を奪うということになる。そこはトータルで診ていないことになるでしょう。

一人一人がそれぞれの価値観を持っていますから、医療だけで人を縛ってしまうことはできないということは、やはりあるんです。医療というのは常に不確実で、100%の回答はありませんから、そこまでの全責任を、本当は医者は持てないんですよね。そこは医者自身が謙虚になって、限られた範囲の中で自分に何ができるのか、ということでしかないわけです。

心臓病というのは、命がぎりぎりのところまで行って、また一時的に戻ることがあるんです。どのようなケースでも、私たち医師は懸命に治療しますが、その人の尊厳を奪わないように、と思っておかなければならないということです。

そのような心構えは、学校で習いませんでした。私の学生時代には、病を治すためにどう努力すればいいかというのが医学部の授業だったわけですから、ターミナルのケアや緩和ケアなどは授業になかったですね。今はもうあるんじゃないですか。考え方としてはだんだんできていると思っていますけどね。

私は看護学校でも教えていますけど、患者の多様な価値観についての時間は大切にしています。私にとっても長いあいだの疑問でした。医者になって一所懸命に治療していて、寿命を延ばすためだけにがんばりながら、それがどこまで意味があるんだろうという疑問はずっとありましたね。

これは大切なことだという認識は、ぜひみんなに持ってほしい。医学部教育の中にも入れてほしいと強く思いますね。

ただ、具体的にどういうふうに個々の患者さんに接するかということになると、これは大変に大きな問題です。

病気が治るというのは、身体的な、物的な問題に目が行きがちですが、大事なのは心の問題、心身一如と言いますけれども、そういうふうな観点で診ていかなければならないということですね。

心という言葉はいろんな広い意味をふくんでいますが、場合によっては霊的なものもあって、そこになると立ち入ることはなかなかむつかしい。でもそういったこと全体が人の命なんですよ...ということを医者が知っておくことは、ものすごく重要です。

そういう学問を医者はすべきだと思いますね。哲学の問題も絡んで、なかなかむつかしいですが、しかしヒントはたくさんあるはずです。

患者さんにとって希望はとても大切なものです。先ほど心身一如と言ったのはそのことで、心というものをきちんと診てあげるということが非常に大事なことであって、そのことで周囲の心が安らぎ、それで本人も安らぐ。身体は感情と強く結びついていますから、心の苦しみ自体が身体をだめにする。だから、環境も全部含めての身体なんです。

そのことを深く理解して、患者さんのことを思い、家族もサポートしてあげ、希望を持たせてあげること自体が大きな薬であるということですよね。でもそれを、医者がとかく忘れがちになるんですね。

だから医者もいろんな経験をしなければならない。教科書に載っていなくても大切なことはたくさんあるし、それにプラスしていろんな治療や薬があるわけで、その基本を間違えたら妙な方向に行ってしまうと思います。技術先行になると大切なものを見失うと思いますね。人間というものは、まったく機械のようには生きられないですから。

しかし心の問題はとても難しくて永遠に乗り越えられないでしょう。おそらく釈迦やキリストでさえ悩んだことでしょうが、人間のいちばんの基本ですから、忘れないようにするために、たえず振り返りたいと思いますね。(聞き手と写真=川本)


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