【福岡】早良区西新 こだち訪問記|臨床心理士という仕事
- NPO九州大学こころとそだちの相談室
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九州大学西新プラザ内産学交流棟
TEL:092-832-1345
かつてなく社会が複雑になっている今、とても大事な職業であるにもかかわらず、臨床心理士という仕事はなかなかおもてに出てこず、理解がむつかしい。そこで「NPO法人九州大学こころとそだちの相談室=通称こだち=田嶌誠一理事長」に、心理臨床部長で臨床心理士の姫島源太郎さん(=写真左、31)と事務局長の中村俊夫さん(=同右、63)を訪ね、日ごろ感じている疑問に答えてもらった。
―こだちという名称から、子供の不登校を主に取り扱うように思えます―
人が持つ深い悩みや心の行き詰まりに対して、子どもも大人も来談されます。
子どもの場合であれば学校からの紹介がきっかけで、大人の場合は、一人で考えてもどうしようもなくなり、解決を求めて来られる人もいます。
―ほかの病気と比べ、臨床心理士の戸を叩くのはハードルが高いのでは―
自分が精神的に困難な状況にあると自覚しても、精神科病院に行くことは大きな抵抗があります。悩みや親子関係でいきなり精神科病院というわけにはいかないですから。
こだちはもっと手軽な相談場所で、「精神的にキツいんだけど、どうすればいいでしょうか」という状態で電話をかけてこられる人は割といます。病院で検査を受けた方がいいのか、このままで大丈夫なのか、自分では判断ができず、われわれに助言を求めるわけです。一歩手前の交通整理、という感じでしょうか。
―悩んだ時、ここから先は素人が判断しない方がいい基準というものはあるのでしょうか―
「人に話した方がいいんじゃないか」、「一人で考えない方がいいんじゃないか」と思った時が相談のタイミングでしょうか。こだち設立の目的の一つに、大学院を出て傾聴を専門とする臨床心理士の配置があります。話を聞くだけで解決に向かうこともあります。
―社会が複雑になっている今、もっと臨床心理士が前面に出るべきでは―
臨床心理士は悪いところを治すというよりも、本人の自己治癒力を高めるための援助が中心です。病院のように悪くなってから行くのではなく、悪くなる前に自分でなんとかできるようにするというのが役割りです。そのあたりの認識はもっと社会にアピールしていく必要があるかもしれません。
定期的に市民講座を開いていますが、勉強の一環として来られる人が多く、人の心に関心を持っている人はずいぶんいるように感じています。
私たちが「待ちの姿勢」のように見えるのは、本人に変わりたいという意欲がないと、カウンセリングで変わることはかなりむつかしいからです。意欲のない人のところに出かけて行っても効果は疑問です。しかし、それだけでは潜在的なニーズには応えられませんし、そこが臨床心理の課題だと思います。最初は押し付けがましく入っていっても、しっかりと関係をつくることができれば、非行少年にしてもモンスターペアレントにしても、彼らの言い分を語ってくれるかもしれません。
―相談相手とどこまで深く関わっていくのかについて教えてください―
相手への同情と共感を混同しないことです。共感しているつもりが情緒的に巻き込まれてしまう人は、臨床心理士としてのトレーニングが必要です。「傾聴している自分を、もう一人の自分が上から見ている」とベテランは言います。たえず冷静に、客観的に見ている部分が必要です。
「共感的理解」ですから、共感しながら相手の気持ちを理解しなければいけない。そのために客観性が求められるわけです。
主観的に体験しているのと、客観的に理解している状態が両方、自分の中にバランスよくあることが面接では必要です。
―ひ弱な子どもは、もっと劣悪な環境で鍛え直せばいいという意見がたまにあります。そんなショック療法は有効ですか―
それはむつかしい質問ですね(笑)。効果はあるかもしれませんが、効果のない場合も同数かそれ以上あるでしょう。問題に向き合うという状況に親子が一緒に飛び込んで行くところが大事だと思います。子どもだけをどこかの施設に追いやって、この子をどうにかしてくださいと言ってもうまくはいかない。親が腹をくくった時点で事態が動き始めるものです。
心理面接でも、親の変化が子どもの変化を生むということがしばしばあります。子どもが面接に来なくなっても親だけ来ているケースは割に多いです。おそらく子どもは、自分の置かれている状況や状態がよくわかっていて、「ボクはもう行かないけど、お母さん行ったら?」などと言うときは、大人には見えていない状況が見えているのかもしれません。
―相手がカウンセラーから巣立つのはどんな時ですか―
いろんな学派や面接の方法があるので一概には言えませんが、相手に幻滅されたりがっかりされたりするときが来ます。そう仕向けているわけではないのに、徐々にそうなっていく。「最後には自分で抱えるしかないのだ」という覚悟が生まれるのでしょうか。
カウンセラーというのは親身になって話を聴きながら、最終的には「もうあなたは必要ありません」と相手に言ってもらわなければならない。人助けみたいなことをしているようで、最後にはもう用済みだと言ってもらわなければならないんです。最初は頼りになる存在ですが、カウンセラー自身はそこにいるままですから、相手が成長すればするほどこちらが小さく見えてきて、もうあなたでは頼りにならない、と言われ、ああよかったな、ということになるんです。そこからが本当の意味での自立ということになるんだろう思います。
―覚悟という言葉が随所に出てきました―
変わろうという意思があるかどうか、という意味です。どこのカウンセリングでも、来始めた時点で事態は動き始めていることが多いです。
生涯発達という言葉があります。人は生きている間は発達し変化し続けるので、我々は病気の時だけ登場するのではなく、人がより良く生きるために、もっとやれることがある。人生をまとめていく手助けはできるだろうと思います。聴くだけしかできませんが(笑)。