いじめには2種類ある。本当のいじめと、実はいじめでないものと。
大学の教室に小学生が1人混じり、教師にハイハイと手を上げたら授業の妨害になる。
しかしその小学生は高下駄を履いて、自分を大学生だと思い違えているので毎日登校してくる。畢竟ほかの大学生は授業を進めたいから、小学校に戻るよう児童に勧めるが、その助言が児童の目にはいじめに映る。実際にいじめられているのは大学生の側なのだが。
このようなことは職場で頻繁に起こる。人にはそれぞれ自分の棲むべき場所、就くべき仕事がある。それについてフリーライターの入香都子さんは、福岡大学発行の「七隈の社」第8号に、「自分にとって苦にならない仕事を選ぶべきだ」と書いている。「好きなこと」を選ぶよりも重要だと。
この言葉のもたらす意味は深い。「好きなこと」だけを判断基準にする人は非常に幼児性を帯びているように私には思える。
では最初に戻って、かの小学生は大学生の助言を聞き入れるだろうか?残念ながらそうはならない。なぜなら双方にとって会話がチンプンカンプンだからである。
好きな食べ物とかテレビは「ピカルの定理」がおもしろいとかの話までは通じるが、そこから先がちっとも噛み合ない。幼稚すぎて理解してもらえないのである。そのため教室の空気はよどみ、小学生にもイライラがつのって神経症になり、ヘタをすれば開き直って、大学を相手取って地位保全を求める訴訟を起こしかねない。
世に言う「いじめ」の中にはこういった状況が案外多く、それが自殺や内向や精神病や裁判沙汰に発展するケースもあるのではとも思う。
というふうに書くと、大学生の溜飲は下がるが小学生からは口を曲げて非難されそうだ。
私はただ、小学生はほかの児童といっしょにいたほうが、よほど楽しくて成長もできると言いたいだけなのだ。小学校の教室にもおそらく幼稚園児がいて、その対処に手を焼くこともあるだろう。でもおそらくその小学生は、あらゆる権利を振りかざしながら、大学の教室にとどまろうとするであろう。
(コバルト色の空)