久留米大学医学部小児科主任教授 松石 豊次郎
4月20日から22日までの3日間、福岡市の福岡国際会議場と福岡サンパレスホテルで第115回日本小児科学会学術集会が開催された。学会の会頭を務めた松石豊次郎久留米大学医学部小児科主任教授に話を聞いた
- Profile
- 1975 久留米大学医学部卒業
- 1975 久留米大学医学部小児科学助手
- 1978 鳥取大学医学部脳神経小児科
- 1987 久留米大学医学部小児科学講師
- 1990 パキスタン・イスラマバード小児病院
- 1993 久留米大学医学部助教授
- 2001久留米大学医学部小児科学主任教授を経て現在に至る
- 1985から日本小児神経学会評議員
- 1995から日本小児神経学会長期計画委員
- 1998から日本小児科学会代議員
- 2002から日本小児神経学会理事
- 2002から福岡県小児保健研究会会長
- 2003から日本小児保健学会理事
- 2004から日本あかちゃん学会理事
Q―小児科学会はとても盛況でしたね。
終わってからおよそ一週間が経ちましたが、いまだに何通もお礼の手紙を頂いています。学会自体のクオリティもそうですが、特に接遇についてお褒めをいただくことが多くて、スタッフと時間をかけて準備してきた甲斐がありました。学会自体も演題は1114題、参加者は5598人と、共に過去最大のスケールを実現できました。学生・研修医の参加も例年より多くて、若い方たちが小児医療に目を向けてくれていることがうれしかったですね。学生さんにも演題を担当してもらったことが大きかったかもしれません。将来を支えるのは若い方ですから、小児医療に興味を持ってもらうことが大切だと考えています。
Q―いつ頃から小児科医になろうと思われたのですか?
私の誕生日は1949年5月5日で、こどもの日が制定された直後の生まれなんですよ。もっとも、このことは鹿児島の医師の方が「松石先生は生まれながらの小児科医ですね」と仰ってくれたときにはじめて気がつきました(笑)。
それは冗談として、実際の動機はすばらしい先生たちにめぐり会えたことでしょうか。小さい頃の私は体が弱くて、小学校3年生のときに肺結核で10ヶ月休学したため、復学に不安がありました。でも、とてもほめ方のうまい先生に出会えて、やさしく励ましをもらった体験が子どもを支える仕事に就きたいと思ったきっかけでしょうか。また大学時代に、山下文雄、加藤裕久両本学名誉教授に出会い薫陶を受けたからこそ、今日まで小児医療を続けてこれたと思います。
Q―Rett症候群の研究を、親の会と共にされてきたとことですが。
さくらんぼ会は、久留米大学病院に通院するRett症候群のお子さんをもつ方たちが日本で最初に結成した親の会で、今年で24年目を迎えます。皆さんとても熱心、たくさん勉強、先輩が後輩を支える、そういったことが自然発生的にされているのです。11年前には軽井沢でさくらんぼ会の協力の下で、国際学会を開催しました。親御さんたちには、本当に頭が下がるおもいですし、私たち医師はたくさんのものを学んでいます。毎年、温泉で勉強会を行っています。親御さんたちはお酒が好きな方が多くて、大変です(笑)。
Q―小児科を目指す人に若い人たちへのメッセージはありますか?
今の日本には一種の閉塞感みたいなものがあって、規制・規則に縛られたり、そつなく物事をこなすのにとらわれすぎているような気がします。
これは私たちの教室のモットーでもありますが、若い人たちには失敗してもいいから新たなことに積極的に挑戦してもらって、評価する側も減点主義でなく加点主義で臨むべきだと考えています。自分で新しいことを見つけて、目標設定して、それに向かうことが大事だと思います。ちなみに、本学小児科の伝統として医局員の6割が本学以外からきています。人が宝ですから、熱意のある人をいかにのばすのかがメインテーマなのです。留学したい人がいれば、大学として応援して、たとえ海外が気に入って日本に帰らなくなったとしても国際的に活躍する人になって欲しいし、長い目で見た恩返しをしてくれればいいと考えています。
Q―米国に留学経験がおありとのことですが、どちらにおられたのですか。
1987年からノースウエスタン大学病院に3年いました。エバンストンという所に住んでいましたが、発砲事件が頻繁に発生していました。とても怖かったですが、たまたま近所に住んでいた大阪大学の歯学部の先生とは、今でも戦友のような関係です(笑)。
【松石医師の健康法】主な趣味は音楽鑑賞とジム通い。学会の準備で忙しかった3月にも欠かさず、常に身体をリフレッシュ。温泉めぐりもしたいが多忙でなかなか機会がないとのこと。さらに車で片道30分かけて蕎麦を食べにいくこだわりも。(内)