九州大学救命救急センター日本DMAT 野田 英一郎
最初の地震が発生した3月11日14時46分、私は救急隊員に災害医療についての講義を行っており、15時2分に福岡県救急医療情報センターより携帯電話向けに配信された災害発生メールにより、発生を知りました。15時13分に厚生労働省医政局DMAT事務局より携帯電話メールでDMAT隊員の待機要請がかかったため、九州大学病院DMATでは勤務していた看護師・医師・事務職員で、携行資機材の確認、EMISの入力、情報収集を開始しました。
EMIS(Emergency Medical Information System)とは広域災害救急医療情報システムのことで、今回のように災害が起きたときに所属する病院の状況を入力し、また他院の機能検索ができるシステムです。入力しておけば患者の受け入れ態勢が可能かどうか、ライフラインの状態がどうかなど一目で確認できます。
DMAT(Disaster Medical Assistance Team)とは阪神大震災での医療体制を教訓に発生超急性期に活動できる、専門知識・技能を持った医療チームです。我々のチームは私をリーダーとした医師1名看護師2名の計3名で出動することとなり、それをDMAT管理ホームページより携行資機材リストとともに登録しました。
このページに入力することで出動チームの名簿や連絡先、どのような資機材を持っているのか、いまどこでどのような活動をしているかが一目瞭然となります。本来DMATのメンバーは医師・看護師・業務調整員の混成チームで、全国で災害拠点病院を中心に400施設、800チーム約5000人が登録しています。
主な活動内容は災害拠点病院での医療支援、被災地外への患者搬送、被災現場での救護活動、被災者救出支援です。出動するときには、その都度指定された被災地内災害拠点病院や広域搬送計画が発動した際には、事前指定された広域搬送拠点(新千歳空港、仙台空港、羽田空港。伊丹空港、福岡空港)に参集するよう指示が出ます。
今回は近隣地域その他、病院車等で被災地へ向かうことが出来るDMATは福島県立医大や仙台医療センターなど被災地内の災害拠点病院へ、また、広域搬送計画が発動されましたので、その他九州地区のDMATのように被災地まで病院車等で向かうことができないDMATは千歳基地、福岡空港、羽田空港へ参集しました。
広域搬送計画とは、被災地内の医療施設では数的、質的に対応しきれないと判断された場合、被災地外の医療施設に、自衛隊等の飛行機、ヘリコプターを用いて搬送する、というものです。被災地外から参集したDMATが、被災地内の広域搬送拠点で患者を受け取り、飛行機等でともに移動し、被災地外の広域搬送拠点で安定化させた後、自施設へ搬送し、治療することを基本としています。
DMATの派遣・出動は基本的に被災した都道府県から厚労省を通じて要請されます。派遣要請がなくとも、ニュース等で先に情報が入ってくる場合には独自の判断で出動することもあります。
実際の動きとしては18時にDMAT九州ブロックのメーリングリストを利用し情報交換を開始しました。19時47分に厚労省から広域搬送に参加可能かどうかのアンケートがあり、それに回答して待機していました。鹿児島市立病院・熊本医療センターなど福岡空港から遠い地域のDMATは派遣要請が来る前に福岡へ向け出発し、空港近くで待機していたようです。
厚労省から広域搬送活動計画発動の連絡が来たのは翌深夜3時26分でした。空港に第1陣が到着したのは4時50分、第2陣の到着が5時10分でした。今回は福岡県内の施設を中心に九州内の約20の病院や大学から福岡空港に集まりました。福岡空港内の自衛隊施設で、これからの動きや派遣場所についてのミーティングが行ったあと、自衛隊の飛行機に資機材と一緒に乗り込み、6時8分に被災地へ向け離陸しました。
今回は仙台空港の被災状況が深刻だったため、直接仙台へ向かうことが出来ず、茨城・百里基地で飛行機(C-1輸送機)からヘリコプター(CH-47)に乗り換え、仙台・霞目駐屯地へ向かい9時50分に第1陣が、その1時間後に第2陣が到着しました。
霞目基地ではすでに自衛隊の手でSCU(Staging Care Units)が立ち上げられていました。SCUとは、患者さんを被災地域外へ搬送するときに、飛行機に乗せてよいのか最終確認をする簡易施設です。
また、搬送先の地域にもSCUが設置されており、九州の場合福岡空港内にSCUを設置しそこから各病院へ搬送するという流れになります。霞目基地SCUのテントの中には10床のベッドと電気、重油を用いたヒーター、発電機と照明設備がありました。ここでは5つのDMATがそれぞれ2床ずつベッドを受け持ち、福岡から運び込んだ医療資機材、モニターなどを広げ、活動することになりました。
このようなテントが2張り設置されていました。11時に第1陣の患者さんが到着し治療を開始しました。しかしこの患者さんは広域搬送を必要とする患者さんではなく、自衛隊が現場で救助してきた患者さんを直接診察することになりました。
13時頃には自衛隊ヘリにて孤立した避難所から搬送されてくる避難者のトリアージ(避難者の中から病人・けが人を選別する)を別のチームが開始。
14時頃には近くの体育館を利用した避難所に病人がいるらしいという情報を受け診療が開始された。18時に診察が終了して宿泊予定の東北大学へ向かう予定でしたが東北大学まで行く自衛隊貨物運搬車の手配に手違いがあり23時30分まで待機し東北大学に到着したのは深夜0時30分でした。
我々はカロリーメイトやソイジョイといった食料は持参していたのですが、他のチームは食料を持っていないチームもあった為、途中でコンビニに寄りました。しかしすでに食料はほとんど陳列されておらず、アルコールや水が少量残っているだけでした。東北大学では毛布と食料を用意していただき、ありがたく使用させていただいたのですが今思うとそれらの物資は被災地の方々のために使うべきもの、残しておくべきものだったと反省しております。
翌朝7時30分に霞目駐屯地に向け出発しました。駐屯地では孤立していた避難所から避難者が続々と運ばれてきて、この日も搬送避難者のトリアージを行いました。しかし当初の活動目的である患者さんを他の地域へ搬送するという活動が必要な患者さんはこの駐屯地ではいないということが分かりましたので現地の方の迷惑にならないためにも撤収することが9時30分に決定しました。
それ以降は県単位で帰院する手続きをおこない、われわれはバスで移動を開始しました。新潟で一泊する予定だったのですが携帯電話の電波が入らなかったり、あたりが停電で真っ暗な中で大きな渋滞にはまったりとまだ被災地が混乱している中でそれぞれ帰院いたしました。
活動を振り返って、我々は今回広域搬送を目的として現地を訪れました。患者さんが多数いるであろう避難所や病院から近い駐屯地にいたにも関わらずそこへ向かう足がないというだけでお手伝いをすることができませんでした。しかし車で被災地に駆けつけた他のチームや数日後出動したチームは福島原発の影響で非難しなければならなくなった患者さんの支援なども含めて様々な医療活動を通し支援しているようでした。
本来想定されていたDMATの活動は瓦礫の下から救出された患者さんのクラッシュシンドロームの治療や全身重症の患者さんの治療、広域搬送することでしたが今回の震災は地震による建物の崩壊ではなく津波による被害が大きかったため、医療のニーズも異なりました。
今回改めてライフライン崩壊の大変さを身をもって思い知りました。基地の中で恵まれた環境にいたのですが、水・食料・ガソリンが不足することによって疲れが取れず、移動もできず、またトイレが流せず、治療のあとであっても手が洗えないといった不便な状況に陥り精神的にもつらい状況でした。
今回の東日本大震災が本邦における初めての広域搬送計画発動、SCUの立ち上げでした。医療のニーズを見極めて活動すること、医療関連の資機材だけでなく最低限自分たちの物資は現地に迷惑をかけないということなどたくさんの課題が見つかりました。現在は医師会を中心とした医療チームが支援にあたっています。これからも継続して支援は必要となってきます。われわれもDMATとしてそのシステムを利用した支援についてしっかり考え行動していきたいと思います。