第64回日本食道学会学術集会 - 特別講演 -

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「日本史と癌」久留米大学名誉教授 国際親善総合病院 掛川 暉夫 名誉院長

久留米大学名誉教授 国際親善総合病院 掛川 暉夫 名誉院長

掛川暉夫名誉教授は、講演の冒頭、次のように述べた。

「今回、藤田会長が主題テーマとした"日本食道学会concensus2010―今私達はどこにいるのか―"を進める上で過去の歴史を知っておく必要があるとのお考えからか、我が国の食道疾患治療を歴史的に振り返ってみよと、私にその機会を与えてくださった。誠に光栄に感じる次第である。

しかし、我が国においては食道疾患の主体は食道癌であり治療の歴史的変遷は、すなわち食道癌治療の変遷である。これについては既に、中山恒明、葛西森夫等多くの先人が折に触れ、それぞれの立場から詳細に述べられており、文献的検索で十分かつ容易に知り得る。私自身も各学会の記念号等で縷々拙文を掲載してきたことがあり、従って今回の要請に対し、己の責務を果たそうとしても、従来の繰り返しになる可能性が強く、新鮮味を出すことは極めて困難であると考え、受けるべきか否かを迷わざるをえなかった。

しかし漫談的内容であっても良いとの会長の言葉に力を得て、折角の機会でもあるので観点を変え、学術的内容でなく、また主題テーマから離れてしまっているが、常々検索してみたいと思っていた『日本史と食道癌』と題し、日本の歴史上、有名人物で食道癌に罹患した人物を列挙、彼らのエピソードの一部を紹介し、その責を果たしてみたいと考えた。しかし、近代医学が行われるようになった明治以降は別にして、それ以前は食道癌も含め、消化器癌はもちろん『癌』という診断名は文献に全く見られない。病状(証)の記載のみである。そこから特定の癌を絞り込むことは極めて困難であり、不確実である。

そこで、演題を『日本史に現れた食道癌』から『日本史と癌』に変更した」とし「また検討してみると、我が国における歴史上の人物記載は、私の行った文献的渉猟範囲内ではあるが、古代は皇族、貴族のみが主で、皇族関係でも崇神天皇以前は口述伝記で信頼性が極めて低い。そこで皇族は崇神天皇以降、貴族は幾多の権力闘争の結果、確立された藤原氏を中心とした摂関時代を主体に、その後、支配階級へのし上がり、国政を牛耳るようになった武家社会へと移行した鎌倉、足利幕府時代、さらには群雄割拠した戦国時代の武将から安土・桃山時代を経て天下統一した徳川幕府時代、明治維新から大正時代までを歴代天皇を中心に、その時代々の権力者、およびその世代を彩った歴史上の有名人を検索対象として検討してみた。

その結果、近代医学が行われるようになった明治以降は別として、それ以前は病名診断が極めて不確実であることが分かった。そこで、対象者の中から、まず死因が癌死と考えられる人々を選別し、さらにその中から消化器癌と思われる人を選び、最後に食道癌らしき人々を類推してみた」と述べた。そして項目を

  1. 「癌」の文字の由来
  2. 病名、症状の経緯
  3. 歴史にみる医療の変遷
  4. 各時代の権力者・有名人の死因

の4つに分け詳述した。

項目1では「癌」という文字を使って死因を論じる文献は明治以降のもので、江戸時代以前はほとんどないこと、そして「癌」の文字の出現は1686(貞享3)年に刊行された蘆川桂洲の『病名彙解』が最初ではなかったかと述べ、癌の文字の由来について説明した。

項目2では、癌を意味する病名には「積聚(しゃくじゅう)」、「噎膈(いかく)」があり前者は塊、すなわち腫瘍に触れるものを意味し、後者は吐く、食物が胸につかえるなど通過障害をきたすものであること。また、噎膈は「膈噎(かくいつ)」とも呼び、積聚と同じようなものには「痞塊(ひかい)」があり、これらは総じて消化器癌の可能性が大であると述べ、つづいてその治療法にも言及した。

項目3では、古代(神話・古墳・飛鳥時代)、奈良・平安・鎌倉時代、室町・安土桃山時代、江戸時代、明治時代に分け、各時代の思想、哲理を背景に行われてきた医療の実態を述べ、明治時代に入り西洋医学の導入とともに近代医学が開花した経緯を検証した。

①古代(神話・古墳・飛鳥時代)

古代は、祈りや呪術に頼るしかなく、仏教伝来(538年)後は病気の原因は「前世の余殃(よおう)」によるものと考えられるようになった。

②奈良・平安・鎌倉時代

奈良時代になると、漢、隋、唐から医術がもたらされ、鑑真に代表される僧医が医療を担った。

平安時代に入り、遣唐使が中止されると、中国医学の日本化が進んだ。病気は、個人の肉体的、精神的変調や病原菌がもたらすという概念、社会生活と疾患との因果関係が分からず、神や外力に加護を求める時代が続いた。

鎌倉時代には、武士が台頭し、養生法が寿命を延ばす糧となった。質実剛健を旨とする武士の気風から「質素倹約」が尊ばれた。この時代、中国(宋)との交流が再開され、庶民にも仏教が浸透し始めた。開業医の始まりは、この時代であると考えられている。

③室町・安土桃山時代

この時代は、近世誕生の萌芽として位置づけられる。室町時代には「局方医学」つまり個々の症状を的確に判断する医学が発達した。病人を観察し、全身管理を行うことが重視されるようになった。ここにきて、ようやく仏教と医学が分離されたのである。

1555年、ルイス・デ・アルメイダ(戦国時代に来日したポルトガル人宣教師)によって外科的治療を含む南蛮(西洋)医学がもたらされた。

④江戸時代

江戸時代に入ると、漢方医学とオランダ医学が主流となった。漢方医学は、曲直瀬道三の内経医学を唱導する後世派を中心にそれ以前の古方派、両者の折衷派などがあったが、共に日本医学の創造に努めた。オランダ医学は『解体新書』やシーボルトの来日により、急速な進歩がみられた。西洋医学は日本文化の発展に大きく寄与した。

⑤明治時代

明治時代、漢方医学から西洋医学に大きく舵を切ることになる。明治政府は、近代国家育成に邁進し、太政官布告にも西洋医学振興の方針が顕示された。新政府は、英国から多くの支援を受け改革を進めていたため、英医学採用の機運が強かったが、1869年、蘭方医で医学取調御用係の相良知安と岩佐純(明治天皇の侍医)の進言により独医学が採用された。支配層が、プロイセンの君主制に追従していたことも影響したと考えられる。1877(明治10)年には、東京医学校が東京大学医学部に改称。ここに近代医学が開花した。

最後に項目4で「各時代に権力者、有名人として生き、癌死したと考えられる各100名前後の人物について、私自身の独断と偏見を加味しながら、各々の人物の死生観を推察しつつ述べた」とし「以上、本学会の主題からは遠く逸脱し、しかも極めて不十分な検討結果しか得られなかったが、各歴史上の有名人の死因が何であったのか、漫談的にでも多少知り得たと思い、一興を感じていただけたなら幸いである」と講演を締めくくった。さらに機会があれば、本講演の詳細を小冊子にまとめたいと語った。


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